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和書 3327241 (339)



はい電報です―ある少年配達員の回想
販売元: STEP

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はかた夢松原物語―海辺に愛を植える女たちの記録
販売元: 西日本新聞社

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はぐれ教授迷走記―俳句と二人三脚
販売元: 富岳出版

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はぐれ猿一代記
販売元: 草の根出版会

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ノースウェストが閉店した次の日、私はノースウェストで麻雀を打っていました。次郎に頼み込んで、打たしてもらったのです。懐かしさから、この本を手に取ったのですが、ノースについての記述はほとんど無く、少し拍子抜けでした。しかし、しかしです。次郎が語る次郎の人生は(どこまで事実はともかくとして)まさに波瀾万丈で、一読に値します。高円寺をブイブイいわしてた次郎の姿は、ノースにたたずんでた次郎からは想像できませんが、人に歴史ありとはまさにこのことかと思わされます。ノースで打った事のある人は必読です!




はしれマラソン貯金―ガンをのりこえてはしりつづける岡沢美智子 (PHP愛と感動のノンフィクション (8))
販売元: PHP研究所

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はじけた家族―手記・結婚差別
販売元: 解放出版社

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はじけてダンス!―重度障害者の娘と共育ち
販売元: 小学館

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重度障害の娘がダンスや演劇にドンドンチャレンジする。普通あり得ない。そんな娘から元気をもらって母親もはじける。「森田かずよは森田かずよであって森田かずよ以外の何者でもない」というアイデンティティの意味、日々感謝して生きること、尊厳の難しさなどをカラッとした文章で綴る。親子関係は日々紡いで作られていくものだと実感できる好著。残酷な母親の本音が赤裸々に綴られるが読後感がさわやか。生きる賛歌。




はじまりのレーニン (Image Collection精神史発掘)
販売元: 岩波書店

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西方教会と東方正教会の十字軍以来の伝統的対立。経済人類学者ポランニーが指摘しているように社会主義はポストキリスト教である。ロシア正教はドストエフスキー、トルストイの正教会的文学に見られるように洗練された神秘哲学的で時にはデモーニッシュである。そしてリルケが感銘したように人民に実践的に根付いていた。正教会的エートスは聖トマス以来の、論理的体系的教条主義のカトリックと更にそれを受けて合理主義を押しすすめたプロテスタントとも違う。マルクスとロシアナロードニキアナーキストバクーニンの対立。論理的合理的体系的な唯物論により神を否定した理論派マルクスの西方教会的エートスと無神論と人民信仰に神秘主義的デモーニッシュな正教会的宗教的情熱と実践派革命主義者バクーニンの正教会的エートスの対立。これはやがてマルクスやエンゲルスの直弟子達。即ちマルクス=エンゲルスが直接指導した政党ドイツ社会民主党の合理的修正主義ベルンシュタイン、そして同じく社民党でマルクス主義の法王論理的教条主義者カウツキーらとレーニンの対立に引き継がれる。正教会主義にバクーニンらロシアナロードニキアナーキストを置けば分かりやすい。プレハノフは晩年レーニンはバクーニン主義に陥ったと述べているがある意味マルクスレーニン主義はロシアナロードニキアナーキズムのマルクシズム的再編といえるであろう。この続評は短く彼の帝国主義論の書評にのせる。




はじまりのレーニン (同時代ライブラリー (333))
販売元: 岩波書店

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はじまりのレーニン (岩波現代文庫)
販売元: 岩波書店

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この書物の内容は『はじまりのレーニン』というタイトルによく現れていると思う。中沢はレーニンを単に賛美しているわけでもなく、ましてや全ての思想はレーニンにおいて体現されていると主張しているわけでも本質的にはない。むしろ、レーニンを入口にすることで、西欧が数百年にわたって抑圧してきた別の思想の系譜を辿りなおすことができる、ということなのではないだろうか。中沢によれば、レーニンの「唯物論」の中心にある「物質」という概念は、「観念論」とされるヘーゲルの「精神」と極めて似た意味を担っているという。レーニンは常にヘーゲルの論理学を学び続けていたのだ。さらに、中沢は前ソクラテスの自然学者たちの思索とプラトン以後の形而上学との対比にレーニンとヘーゲルを重ねることで、レーニンの「物質」という概念が「自然」の原初的な能産性により配慮していると指摘し、ヘーゲルとの差異を見る。この古代ギリシアの自然学者との対比を経て、さらに中沢はレーニンの思想的背景に、ヘーゲルを超えて、ヘーゲル自身が依拠し(かつ、抑圧し)たヤコブ・ベーメの三位一体論を見る。ここで明らかになるのは、いわゆる「フィリオクエ問題」と呼ばれる東西教会が決定的な形で対立したモーメントである。この神学論争により三位一体論は大きく変容することになった。西欧において三位一体論は「父と子」と「聖霊」の二項の論理へと移し替えられ、そこに「普遍」と「特殊」からなる中世の形式論理学が、そしてその後の西欧の哲学が形成されたと中沢は大胆に論じる(幾分、大胆過ぎるが、看過できない指摘だと思う)。この西欧の伝統に対して、レーニンは、というよりもドイツのベーメを端緒とする思想は、本来の三位一体論を回復する役割を果たしたという。二十世紀におけるヘーゲルの直・間接的な影響を考えれば、独思想における三位一体論の復活が、単に独特殊の問題ではないことは明らかだ。レーニンから「はじめる」ことで、私たちはヨーロッパのもう一つの思想的系譜を辿ることができることを中沢は冴えた筆致で示している。軽快な装いながら、中沢の本の中で最も懐が深いものの一つだと思う。


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