ヘッセを天上の文学、トーマス・マンを人間(じんかん)の文学とするならば、カロッサは地上の文学を紡ぎ出す.精霊の文学と言い換えても良い.
カロッサの作品には、深い森のなかを散策してもそれを神の恩寵とは思わず、また征服の対象とも規定せず、あくまで身近なものとして触れ合おうとするようなところがある.迫力に欠けるとも言えるが、どこか日本的で、親しみの持てる感覚だ.カロッサのそうした自然との向き合い方は、『成年の秘密』のような小説のなかで遺憾なく発揮される.
カロッサが自身の青春を語るとき、そこには芸術青年の苦悩や知識人の憂悶は存在しない.まるで自分を取るに足らぬ脇役とでも思っているかのような謙譲の美徳が、回想の根底に静かに据えられている.それは『幼年時代』『青春変転』『美しき惑いの年』『若い医者の日』の自伝的四部作などで描かれ、カロッサの魅力をもっともよく伝える優れた作品群となっている.
また、彼は非常に不器用な人間でもあった.ナチスの台頭とともにドイツの優れた芸術家たちがこぞって亡命していくなかで、カロッサは間抜けにも逃げ遅れる.そして、狂気に陥ったドイツにおいて無残にも国民作家として祭り上げられてしまう.もちろん彼はナチスを憎んでいる.しかし、全身全霊を込めて憎悪することはできない.それどころか、強引に招待されて嫌々ながら訪れたゲッベルス邸で、ゲッベルスとその家族の善良な側面を見出し、途方にくれてしまうのである.そんな憂鬱な日々を綴った『狂った世界』は、当時のドイツ社会を知る意味でも非常に興味深いものであるといえるだろう.
あるいは、彼は作家である以上に多分に詩人であったかもしれない.決して多くはないカロッサの詩作品には、彼の精霊的な詩想があますところなく詠い尽くされている.やがてそれは、「月のファウスト」とでも言うべき未完の戯曲『老手品師』へと高められる.
あまり読まれなくなったカロッサではあるが、その資質は日本の読者の精神性と大いに響きあうものがある.あらためて再評価を促したい.