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和書 492116 (229)



真の独立への道―ヒンド・スワラージ (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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「インド独立の父」ガンディーが1910年に著した著作。編集者(ガンディー)と読者(急進派の若者)との対話という形式で西欧文明を批判すると同時に、インドの真の独立の在り方について議論する。

ガンディーの批判は、西欧の近代文明に囚われ、その価値観、言説体系を自ら内面化してしまっているインド人自身に向けられる。そのような状態を克服するにはインドは魂の力(サチャーグラハ)に目覚めることが肝要であるという。ガンディーに言わせれば、オーストリアからの独立を勝ち取ったイタリアや、西欧型近代国家建設に成功し国威を発揚させつつあった日本は模範にはなりえない。西欧文明に適応する形で主権国家としての体裁を整えようとしていたイタリア・日本方式ではなく、真の文明であるインドの自覚による自治と、西欧近代からの脱却こそが真の独立への道であるというのである。1910年の時点でここまで西欧近代を相対化、批判した上で、植民地主義の根幹が被支配者による、支配者文明の内面化にある点を看破しているところは驚嘆という他ない。このような知性を輩出しえたところにインド文明の懐の深さがあるのかもしれない。福沢諭吉の『文明論の概略』とセットでその文明観、西欧観を比較してみたいところ。





新編 学問の曲り角 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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哲学史家でも読書人でも教師でも翻訳家でも、肩書きは、まあどうでもいいでしょう。希代の知識人というにふさわしい河野与一が1896年生まれだと思うと、同年だった林達夫のことが思い出されます。いかにも処世術にたけ、レトリカルに自分の地位を築く方策を心得ていた林にくらべ、河野の天真爛漫な人柄とすさまじいばかりの実力が、この雑簒にはみちみちている。いくつもの言語を読み、みずからを鍛えつづけた人物ですが、やはり異彩を放つのはギリシャ、ラテン哲学関係のエッセーです。本書でいえば「ローマの響宴」が白眉。おもしろい。他は、世代的というか、むかしの「帝大教授」たちの内輪話的部分は非常に鼻につきますが、それもまた日本近代思想史の一部と見ればめくじらをたてることもないのかもしれません。好きな本を真剣に好きなように読み幸福に生きた。それだけで、それ以上を求めるのは、後世のわがままだと思い定めれば、それでいいのでしょう。つまらない文章もいくつもありますが、たとえば「ベルクソンの洗礼」などはわずか3ページの何気ない文なれど、非常に本質的な問題にふれていると思います。「正誤表の話」も興味深かった。そしてすべての外国語読みが心すべき、「翻訳と字引」。プルタルコスやモンテーニュをただちに読みたくなるのが、大きな歓迎すべき副作用でした。




新編 東洋的な見方 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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ワイド版は良いです。同じ内容でも活字が大きくなり余白が大きくなっただけで、わかりやすくなったような気がします。
鈴木大拙のこの本を読むと根本的なものに触れたような気がします。




シンボル形式の哲学 (4) (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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シンボル形式の哲学〈1〉 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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 ドイツの哲学者エルンスト・カッシーラーが1923年に発表した、三部に渉る大書「シンボル形式の哲学」第一巻、「言語」。近所の古本屋にセットで置いてあり、ウィキペディアで調べてみるとハイデガーと論争した哲学者であることを知り、「シンボル形式」に就いてもとても興味があったので、読んでみる事にした。
この巻は最初に全体の序論、以後「言語形式の現象学のために」というくくりの下で、哲学史における言語の問題、感覚的表現の位相における言語、直観的表現の位相における言語、概念的思考の表現としての言語、言語と純粋な関係形式の表現ー判断領域と関係概念、という各章が割り当てられている。こうやって章題を羅列してみると、とても難解で抽象的、とっつきにくい印象があるが、実際読み進めていくと訳語・論旨自体は常に明確・明晰で、内容もとても豊かで読み手を触発するところも多い。ただ、気を抜いて読み流していくとすぐにその論旨が判らなくなることがあり、何度も前に戻って意味を取り直すことがあったが、それは逆に言えば、中身の濃い論述が全体として続いていることの証にもなるだろう。
 序論では、まず人間が認識して思考する際のメカニズムに就いての考察が本書全体のテーマであることを述べた上で、上の過程でキーになる機能をシンボルないし記号であるとみて、シンボル・記号は言語・芸術・神話・宗教・科学、あらゆる人間的思惟にそれぞれの内的形式に応じて作用しているはずだ、として、以後の論述の道筋を規定する。手法としては分析的であるよりは綜合的、発生的、現象学的である、と。二元的な対立が実在的に先行するのではなく、ある体系を把握するためにある実在を方法的に二分させているのが実際のところだ、ということは何度も著者が強調している。
哲学史における言語の考察に就いては、著者がドイツの人なのでその方向に偏ってはいるが、哲学における最初の考察対象がいつでも言語そのものに他ならなかったという議論は、どんな立場にも拘らず納得できる真実味を持っている。
以後の議論は感覚的表現としての身振り言語と模倣・類比表現、直観的表現としての空間表現・時間表象・数概念・自我概念の獲得過程と相互作用、概念的思考としての質規定・類規定・形成の方向付け、さらに高次の関係概念の形成までを豊富な実例を引用しながら、主にカント以来の認識批判理論の見地に立って順序良く展開される。特に刺激的だったのは空間・時間・数・自我に至る知の領域の画定と相互作用の様態で、この部分は英文法の各単元に就いての思弁としても、小説を作る際の作法書としても読める多義的なテクストだ。
非常に刺激的な一冊。読み手をインスパイアする力がもの凄い。お薦め。




シンボル形式の哲学〈2〉神話的思考 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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シンボル形式の哲学〈第3巻 上〉認識の現象学 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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西田幾多郎哲学論集〈3〉自覚について 他四篇 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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 本書は、西田幾多郎(1870-1945)最晩年の6年余りに書かれた16篇のうちから、「絶対矛盾的自己同一」「歴史形成作用としての芸術的創作」「自覚について」「デカルトについて」「場所的論理と宗教的世界観」の5篇を選んだ論文集である。

 私は西田の文章を初めて読んだが、定義も引用も事例も殆ど無いままに連続する対義語に面食らった。それでも論文には繰り返しが多いので、最初はとっつきにくくとも、先を読み進めていけば、前の論文で説明不足のところは、後の論文が大分補ってくれる。では、なぜまたそのような表現を選んだのかと言えば、それはこの老境の哲学者が、最晩年に差し掛かって「私の根本思想を明らかにした」がったためであろう。そこから逆に、この老境まで自らの世界への素朴な関わりを捨てずにいたこの著者の姿勢が理解される。

 論理だけを追えば、それほど難しいことが言われている訳ではない。現在では主体と環境が相互作用する、と簡単に言われているが、その時間的なスパンを極小化していけば、環境が主体に表現されるのと同時的に、主体が環境を創出する状態が現出するはずである。これが未来と過去、多と一、事実と当為、超越と内在、作ると作られる等々の相矛盾した属性が、絶対否定を媒介として空間的に共在する場であり、それを「絶対矛盾の自己同一」と呼んでいる。この立場さえ確立されれば、西洋の対象論理の立場とは逆の場所的論理から、芸術も科学も宗教も同列に論じられると睨んでのことであった。

 私は西田の歴史的意義については関心が薄いが、今現在から読んでも面白いと思ったのは、この論理が、オートポイエシスやアフォーダンスの現象学的記述として読み直せそうに思ったことである。とはいえ、この西田の論理世界を生き生きと実感的に感得できるか、と問われれば、そこには大いなる距離を感じたこともまた事実で、そこが本書の「難しい」所以であった。




時間と自由 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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 有名な「持続」概念を確立した一冊として古典中の古典になっている著作。

 ベルクソンは時間が空間的なメタファーにおいて理解されている事に注目し、現在というものが理解しづらいのはこのためだと喝破した。現在を点に取れば、音楽作品のメロディを「今聴いているメロディ」として認識出来る事の説明がつかなくなり、逆に現在に幅を取ると過去や未来はどこから始まるのかがわからなくなる。これは時間を積み木細工のように考えているからである。しかし「今」と「過去」や「未来」が同時に同じ所に存在できるものであると考えた時、この難問は解決される。

 訳も新訳で読みやすくなり、しかも文庫本で安い。一家に一冊。




自省録 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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マルクス・アウーレリウスは、ローマの皇帝で、ストア哲学者でもありました。本書は彼の自省の記録です。

ストア哲学はその中心に道徳について倫理学があり、それに従属するものとして、事物の認識の道具としての論理学、宇宙における自らの立場を理解するための援ける物理学がありました。ストア哲学によると、人間は肉体と霊魂と叡智(指導理性)から成っていて、この理性は宇宙を支配する理性の一部であり、人間を人間たらしめるものとして考えられているようです。

マルクス・アウーレリウスは、このストア哲学を自らの指導原理として、当時再三ゲルマン民族から侵略を受けていたローマの皇帝としての人生を送り、58歳の時に当時の戦地であったウィンドボナ(今のウィーン)で伝染病でなくなりました。自省録は、そのタイトルの通り、マルクス・アウーレリウスが、ストア哲学に則り、自己を省察している記録です。自らの人生に裏打ちされている言葉は、今も生き生きとしていて、人間が人生を生きる上で大切なものは何かという事を思い起こさせてくれます。もちろん、2000年の時を経ると、現代にそぐわない内容も多くはなるのですが、そのような古典の限界に焦点を当てるのではなく、変わり続ける事のない真理とおぼしきものについて考えを深めていきたいといつも思います。

彼は、この本の中で「自分自身の魂の動きを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる」、と喝破しています。僕もこれに強く共感します。なぜなら、人間が悪い意味で「変わってしまう」という時、その変化がいきなり起こるのはまれで、少しずつ変わっていると思うからです。もし、その変化が自分にとって好ましいものでなく、それを止めたいと思うのであれば、日々自分が変わっていないか、点検する作業が本当に大切なのだと思います。自分自身も、いつもそうありたいと願っています。




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