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和書 492116 (291)



分裂する現実―ヴァーチャル時代の思想 (NHKブックス)
販売元: 日本放送出版協会

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ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)
販売元: 日本放送出版協会

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難解なヘーゲル哲学を、「精神現象学」「法の哲学」に絞って、しかし関与するその他著作などにも言及しながら、極めて明快に説明した好著。しかしここでは、相性の合わなかった読者として、幾つか不満を書いておきたい。1)誰におもねっているのか、と言いたくなるような「題名」や文章はやめて欲しかった。余り読者をアンダーエスティメートしてはいけない。もっとストレートに素直な文体と題名にすべきだった。不自然に砕けた書き方が「理解を促す」ことなどはありえない。同じ勘違いを時々して恥ずかしい気分になる高名なヘーゲル学者も居る。出版社の説得を蹴って題名だけでも変えるべきだった。2)「良心」の解釈が納得がいかない。著者のそれまでの細かい部分までの的確なフォローに敬服していただけにちょっと意外だった。自分の「精神現象学」の理解だと、「良心」は確かに西氏が言うように非情に直感的な部分もあるが、「精神」の最終段階で出てくるだけあって、それだけではない。「道徳意識」を超えた知見の広さ、世界の諸関係の中の自身の位置がわかった上で、なさねばならない、という確信に基づいて行動するのが「良心」だ。Gewissenという語からも分かるように、けして「直感的」な「確信」に「良心」は終始しない。本人なりに状況を良く分かっているのだ。単なる直感の確信では、浪漫派と変わりがなくなってしまい、ヘーゲルが厳しく退けた思想になってしまう。むしろ(西氏も別に書いているように)人間の理性のぎりぎりの段階なのだから。
「良心」の扱いは「法哲学」ではもっと位置価が下がるが、「精神現象学」の「良心」を発展させ、深める可能性があれば、別な哲学がありえたかもしれないと思えるのだが・・・。今度本を出すときはその辺りも書いてください。




マルチチュード 下 ~<帝国> 時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)
販売元: NHK出版

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上巻は迫力があったのに下巻にななったら息切れしている感じの内容。
それはともかく、根本的な疑問がある。
“「帝国」は寄生的で「マルチチュード」に依存しているネットワークであり、それに対して「マルチチュード」はそれ独自で存在しうる自己組織体で弁証法的な構造を有してはいない”から“「マルチチュード」であることは希望がある”というのだが、それってむちゃくちゃ楽観的すぎないかい?
「帝国」が弁証法的な構造体である、と著者は言い切っているがそうと決め付ける根拠は何なのか?
「マルチチュード」がそうであるのと同様に「帝国」も自己組織的で非弁証法的なものなのだとしたら我々はどうしたらいいのでしょうか?




マルチチュード 上 ~<帝国> 時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)
販売元: NHK出版

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ネグリ=ハートの論の大きな問題点は、自分の論について論証するのではなく断言するにとどまっているという点である。
彼らは、<帝国>が世界を支配していることを前提とし、その視点に基づいて世界を分析する。
この視点を<帝国>的世界観と呼ぶならば、本書は<帝国>的世界観というメガネを通してしか世界を眺めていないと言える。
例えて言えば、世界はすべて聖書の記述に基づいて説明可能であり(実際かなりの部分が、そう信じている限り可能だろう)、したがって聖書に基づいて人々は行動すべきだというキリスト教的世界観と同じである。
<帝国>的世界観は、信じるか信じないかの宗教なのである。ゆえに、<帝国>の理論から普遍性を有した提言や批判は導けない。

確かに本書では具体的な国際政治の事例が多数出ている。しかしこれは筆者の<帝国>的世界観の論拠足りえない。
<帝国>は「概念」(『<帝国>』p7)である。
したがって、ネグリ=ハートがすべきなのは、現実の国際政治の事例と概念(ネグリ=ハートならば<帝国>)との間にはしごを掛けることである。つまり、国際政治の事例が、なぜほかの概念ではなくその概念(<帝国>)において説明されねばならないのか、その事例の原因は、無数に考えられる他の構造ではなくその構造(<帝国>)なのか、を示す必要がある。
ところが、ネグリ=ハートは<帝国>的世界観が染み付いているために、それ以外の見方など頭にも思い浮かばないようだ。
このように<帝国>のメガネを通して<帝国>を立証していくというのは、その方法的にすでに破綻している。


・<帝国>
ネグリ=ハートは<帝国>について、主権が単一の支配論理の下に統合された一連の国家的(ナショナル)かつ超国家的(スプラナショナル)な組織体からなる新形態(=<帝国>)が存在することを前提とする(『<帝国>』p4)。
常識的に考える限り、<帝国>が世界を支配しているということは彼らの論の結論として出てこなければならない。
ところが、彼らは自らが立証すべき論を前提として一方的に正しいものとしてしまい、それを前提に世界を眺めている。
だから彼らの論は宗教の領域を免れない。

彼らは<帝国>を以下のように定義する。「だからこそまず第一に、<帝国>という概念は、(中略)世界全体をじっさいに支配する体制を措定しているのである」(『<帝国>』p7)。
しかし、支配するものを<帝国>と措呈してしまったならば、「<帝国>は世界を支配している」と騒ぎ立てるのはトートロジーでしかない。
そして曖昧な形でしか<帝国>を規定しないならば、必然的に<帝国>がいわばブラックボックス状態に陥り、そこに自分たちの都合の悪いものをなんでも放り込める状態になってしまっている。

彼らの定義に従えば、<帝国>は概念である。
したがって、<帝国>が支配したり搾取したりするというのはあからさまにナンセンスである。
なぜなら、支配したり搾取したりするのは実態物であり、概念とは次元を異にするものだからである。
ところが彼らは<帝国>を概念だとしておきながら、それを実弟的に取り扱い、読者に<帝国>をことさらに脅威であるかのように刷り込んでいる。

また、アメリカや多国籍企業など、<帝国>として非難された存在が起こしている様々な問題が本書では取り上げられている。
しかし、問題はなぜ<帝国>の一要素が有しているに過ぎないものの特質が、他の<帝国>の要素にまで当てはまるといえるのか、という点である。
アメリカなり多国籍企業なりは<帝国>の要素の一つであり、それらの行動が大きな問題を有していることを認めたとしても、そこから他の<帝国>の要素がどうなっているかは何も導けない。
したがって、「アメリカはいけない」から「<帝国>はいけない」に論理を持ち込むことはできず、アメリカの悪性をもってして<帝国>の悪性を示したことにはならず、あるものが<帝国>であるからといってそれが非難に値するかどうかも何もわからない。


・マルチチュード
マルチチュードは明らかに、インターネットにおいてもっともなしうるだろう。
しかしオープンソースから、マルチチュードや民主主義を擁護する(下p236〜237)のは難しいだろう。
オープンソースの場合、改良されるのがコードであるため、「良」の方向性が明確化されるのに対し、社会の場合は「何がよい社会か」という問い自体が対立し続ける。
これはウィキペディアの編集合戦を考えればわかるだろう。特に編集合戦が起こるのが政治や経済といった社会的問題であることは、オープンソース形式を社会の問題に導入することの問題性を浮き彫りにしている。
また、インターネットをマルチチュードとしてみるならば、例えばブログ炎上や祭りのような事態についても、マルチチュードの発現だとして擁護するのだろうか。
そのような危険な発現は認めないという回答があるかもしれないが、マルチチュードの発現の方向性を先に決めてしまうならば、それは自発性と多元性を擁護するマルチチュードとしては名ばかりのものとなるだろう。

次に、マルチチュードにおいては「管理を行う中央は存在せず、すべての節点(ノード)は自由に自己表現を行う」(下p60)とあり、これが、個人が支配されないことを擁護する。
しかし、ここでいう自由や自発は、あくまでも定義上でしか存在し得ない。個々人の意志は社会との関わり合いにおいて作られるものである以上、実際にはマルチチュードにおいてさえ自分以外による支配やコントロールを逃れることは出来ない。
いや、形式的に支配をなくすだけでも十分意味はある、と言うかもしれないが、そもそもネグリ=ハートが批判する新自由主義もまた「形式的」には非支配と対等性を認めている。


真の民主主義は、「多数による全員の支配」を脱して「全員による全員の支配」を行うことだとしている。
だが、そうだとするとネグリ=ハートが真の民主主義の萌芽として認めるマルチチュードなどの運動は、真の民主主義をなす上ではあまり役に立たない。
なぜなら、マルチチュードなどの運動は参加するかしないかをまず自由に決め、それから全員として行動するが、社会の場合は先に全員の中に組み込まれてしまうからだ。
社会的決定とは、不参加が認められない状況で下される決定であるため、マルチチュードを適用させることは出来ない。

マルチチュードは多様性を擁護するため、「マルチチュードや民主主義に敵対する思想」もまた多様性の一つとして擁護されねばならない。
ところが、こうした思想が擁護されている限り、全員が共通の目的に達する状況にはなりえないため、民主主義による決定は下せない。
無論、「真の民主主義は全員による支配を行う。ただし、民主主義に批判的なものはこの限りではない」とすれば一応の解決は出来る。
しかし、これは「政府は言論に自由を保障する。しかし、保証者たる政府を批判するものについてはこの限りではない」としている状況が、果たして言論の自由が守られていると言えるのか考えてみれば、民主主義批判を排除した民主主義は、まったくもって民主主義的であるとはいえないだろう。

では、ネグリ=ハートは、こうした事態にどう対処するのか。彼らは、自分の言を裏切り、敵を抑圧することで問題を解消しようとする。

まず彼らは戦争を容認する。
「民主主義が暴力を用いるのは政治的目標を追求する手段である場合に限られる」(下p240)、「暴力を防衛のためにしか用いない」(下p241)、だから暴力を振るってもよいのだという。
要するに「我々は暴力など振るいたくないのだが、敵があまりにも悪質なので、やむを得ず暴力を防衛のため用います」と言っているに等しい。すべての戦争はこうやって始まるものだ。
彼らによると、他の正戦論は実際には「道徳的基礎に基づいて正当化できるとみなされた軍事攻撃にほかならず、したがって民主的暴力の防衛的なあり方とはまったく無縁」だという(下p244)。民主主義を絶対的に崇拝するという前提に立つ限り、他の正義はせいぜい価値観止まりになるだろうし、絶対的対象の民主主義と価値観止まりの正義とは明確な差を設けられるだろう。
だがここでやっているのは、結局自分の信じる正義(民主主義)とそうでない正義とをランク分けして差別化しているに過ぎない。

次に「愛」が飛び出してくる。
ネグリ=ハートはマルチチュードなり<共>なりへの愛を説くわけだが(p253〜255)、オブラートを外して見れば、マルチチュードや<共>のために個人の思いは我慢しろ、という地平に帰着する。
さらに「愛は(中略)建設に基盤になる」(p255)ということで、人々は愛をもたなければいけないことになってしまう。
要するにマルチチュードや<共>のために犠牲を払うことを強制する抑圧装置であろう。





ヨーガの思想―心と体の調和を求めて (NHKブックス)
販売元: 日本放送出版協会

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ヨーロッパ思索紀行 (NHKブックス)
販売元: NHK出版

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NHKの番組収録のついでに書いたような一冊。出版もNHKだし。
私見を述べるに際して、根拠を示さないために、説得力に乏しく、読んでいて不快。「決めつけ」が多くて、疑問が多い。
「ヨーロッパ」と言っても、スペインなど限られた国についてしか述べていないし、東大名誉教授の書く文章としては、いただけないレベル。
全体として、間違ったことがたくさん書かれているわけではないので、残念。




レトリックと認識 (NHKブックス)
販売元: 日本放送出版協会

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レヴィナスを読む―「異常な日常」の思想 (NHKブックス (866))
販売元: 日本放送出版協会

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レヴィナスの思想を軸に、合田正人氏が綴ったエセー(だと思うよ)。研究書ではない。入門書でもない。やはりエセーなのだろう。著者の想定した読者は一体・・・

あと何より気になったのは、「つめこみすぎ」である。ひとつのことを説明するために、あれやこれやと、いろいろな思想家(評論家)のキータームを当てはめていくのだが、消化不良というか、舌足らずというか、とにかく中途半端である。枚数の関係上、詳述できないのは理解できるが。

切り口はいいが、やり方がまずかったのではないか。




論理学入門―推論のセンスとテクニックのために (NHKブックス)
販売元: 日本放送出版協会

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大学1年生くらいでいう「概論」の範囲は"かなり"超えていると思われます。つまり、これは入門書ではありません。

なので、論理学についてすでにある程度の知識があるととても明快な内容になるかと。
この本の有益なところは、論理学の重要箇所について興味深い議論をピックアップして説明しているところですね。目的に応じて「何が」「どのような制限のもとで」論じられるべきか、という点に関して、興味深いことを示唆してくれます。
著者の個人的な意見は多少過激ですが、論理学を使って何かしたい、考えたい、という方にはもってこいの良著だと思います。




古代日本人・心の宇宙 (NHKライブラリー)
販売元: 日本放送出版協会

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宇宙やこの世界の動物、数、形etcについて、古代日本人はどのように認識していたのか。この本はその精神世界に迫り、古代世界の人々が普遍的に共有していた世界認識を読み解こうとするものです。内容も大変に多岐にわたり、古代の「心の宇宙」を広い視点からより立体的に再現しようとしています。

ただ難点としては、この本の成立の性格上読みやすさを重視したせいか、例示は大変多いものの、その論拠や証拠の明示に乏しく、結論にむけて推論が上滑りしているような印象を与えてしまいかねない点でしょう。どこか論理的に肉厚で読み応えのある部分を作っておかないと、全体に資料集的軽さが感じられてしまいます。


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