1931年、熊本農学校を卒業した鶴田氏は、高級果実店「千疋屋」の社長、斎藤義政氏の「将来、酸味の少ない甘味のある柑橘の時代が来る」との言葉に強く印象付けられ、国や県を挙げての温州ミカン推進の潮流に逆らい、川野夏ダイダイ（甘夏の学名）の生産に取り組みます。四面楚歌の状況に耐え、温州ミカン推進派の嫌がらせにも屈せず、栽培技術を確立し、田浦中央農協に同志を増やしていった彼は、1959年に東京・神田市場に進出、市場で温州ミカンの倍の価格を継続するに到ります。
これと見込んだ作物への執念、横並び意識の強い農村社会での人間関係の調整、栽培技術の確立、優良品種を探す熱意は日本の「篤農家精神」であり、鶴田氏はまさにその体現者です。これは「起業家精神」とも一脈通じるもので、一事を成し遂げた人間の情熱に感銘させられずにはいられません。
また、本書では日本農業者の感覚を率直に表現した個所が随所に見られます。「マルエム」ブランドで有名な愛知県宇和郡御荘町の甘夏生産者に無償の技術協力をした話が紹介されていますが、これは競合産地の育成やノウハウの公開であり、自産地の利益には結び付きません。しかし、相手の意気に感じて利益を超越してしまう点に利益や法よりも義理・人情を重んじる日本人のルーツを見た思いがします。
田浦の生産者から「余計な競合産地を育成して！」と不評があったことから全ての農業者が義理人情ばかりを重んじる訳ではありません。しかし、リンゴ「フジ」の普及においても鶴田氏と同様に利益追求を超越したリーダーが存在しました。こうした人物を輩出する日本農業界に人間的魅力を感じる一方で、近年の商社による農業技術の海外移転が輸入農産物の品質水準を上げ、国産品を圧迫している状況を鑑みて、複雑な思いがすることは否めません。
