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和書 492282 (86)



らくごコスモス―落語、昨日今日明日
販売元: 弘文出版

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京須さんによる落語関係の本は多数出版されているが、(今のところ)これが最高傑作。
「高座における神々の黄昏-日本語は落語を超えられるか」
「小三治の人類学」
「秋の鳴る午後-志ん生フィクション」
「はなしのトリップ-隅田川落語往来」
そして「志ん朝 ア・ラ・ロンドー」
の五つの章のタイトルを見ただけでも落語ファンはワクワクするはず。
特に志ん朝師匠の「七夜」実現のドキュメンタリーは著者しか書けない内容。
1996年発行当時の落語界の熱い息吹きが伝わってくる。




らくご小僧
販売元: 新潮社

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  志らくと同世代の僕にとっては、なぜ志らくが“全身落語家”に成りえたのか、というのが以前からの疑問だった。現在40歳前後の人の多くは、小さいころ、すでに落語は遠い存在だったはずなのである。この本を読んでみて、その謎が氷解した。
  まずは両親がギタリスト、長唄の師匠という芸能の血筋だろう。志らくは、歌舞音曲の才には恵まれなかったと語るが、芸で個として生きるという人生におけるスタンス、あるいは父親の落語のレコードを繰り返し聞いたといった環境など、本人の資質だけが今の“全身落語家-立川志らく”を形成している訳ではないことがわかる。一人遊びが好きな想像力たくましい子供だったという述懐は、今の芸風に直結しており、納得させられる。

 もう一点は、後付け的な部分もあるが、“まるで落語のような”エピソードを幼少期から青年期にかけて、数多く持っているということだ。この本自体、そうしたエピソードと落語をリンクさせ、落語を身近なもの、現代にも適応したものとして読者に提示する、という側面を持っており、その意図は充分に達せられていると思う。 志らくは狭い意味での落語に囚われることなく、本、芝居、DJ、映画といったメディアを使って、まさに全身を持って落語を伝えようとする伝道師なのだろう。
  ただし、この本は落語、あるいは志らくに関心がある人だけに向けられたものではない。高校三年生の受験期に“尻尾が生えるという奇病”で入院し、看護婦に淡い恋心をいだくが...という思春期爆笑話で盛り上げた後の、最後のエピソードが秀逸なのである。それは金原亭馬生と、現在の師、立川談志との出会いである。詳述は控えるが、結局、志らくを“全身落語家”足らしめたのは、この2人の偉大な落語家との出会いなのだ。村上龍の「13歳のハローワーク」が話題になっているが、人生の選択を前にした子供たちにとっては、この一片のエピソードの方が、より有意義にも思える。このエピソードひとつで、山田くん星一個余計にやっとくれ、である。




らぶっちょ―富田麻帆写真集
販売元: 学習研究社

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こんな恥ずかしい表紙、店じゃ買えないっす!




らぶぱら記念日―「カノジョと過ごした夢見る様な甘い瞬間、もっともっと好きになっていく…」 (竹書房文庫)
販売元: 竹書房

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らんらんの本ちゃん
販売元: ソニーマガジンズ

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れもん色の午後―木下あゆ美1st.写真集
販売元: 彩文館出版

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当時19歳とするとかなり可愛い。また、色っぽい。現在も大人の女性って感じで惚れちゃいますな。露出がすごくて正直驚いた。が、多数売れたのも、今だ高値で出てる理由がわからん。チクビにかんしては見えてないと思う。はっきり透けてるわけではないし、怪しいのもあるけど、隠すシールが見えてるんじゃねぇ。




ろりんこ。―小倉優子写真集
販売元: 学習研究社

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これはいい。ひざを開いたくらいではあるけれども、白や黒の水着であそこを拝ませてくれる。そこまでやるならもっと・・・と思わせてくれる実用的な写真集。優子さんのあそこが拝めます。




わが師、桂文楽
販売元: 平凡社

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わが愛しの芸人たち
販売元: 河出書房新社

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 「桂三木助 死の真相」と「芸術祭に袂別するの辞」が面白かった。いずれも著者しか書くことの出来ない内幕が語られているからだ。特に三木助の自殺については、当時一般には「看板の重荷」の一言で片付けられてしまっていたので、本稿は貴重な証言、解釈になっていると思う。この距離感は小林信彦と横山やすしの関係を思わせる。よく書けている。是非“「三木助歳時記」の続編”を“遅くとも十三回忌の年”には書いてほしい(“早くて七回忌”の今年は無理だろう。著者は手だけ挙げて先送りの有言不実行の悪い癖があるのでちょっと心配。読者は期待しちゃう訳で)。
 それにしても自らをアンツルに準える自意識はちょっと鬱陶しい。談志師匠に「状況判断ができない奴を馬鹿と言う」って言われちゃう。もしかするとアンツル幻想を相対化する意味とか、三代目三木助に対するアンツル、四代目を受け持つ著者ってペアによって、その器を謙虚に示してるのかもしれないが。
 相変わらず、談志の、人の死に際しての言葉、態度をフォローしていて、ここら辺は著者の面目躍如だ。嫌っていた柳朝の葬式に参列した時、小朝に伝えた「来るべき時だから来た」って言葉。三木助の通夜の前、自宅に立ち寄った小朝に「それで、救えたのか救えなかったのか」と問い、小朝が「救えませんでした」と答えると、「そうか、ならしかたねえ」と納得し、三木助の姉を電話で慰めた後に掛けた「馬鹿どもがいろんなことを言うだろうけど、全部小朝に任せておけばいい」って言葉。こうした言葉や態度は談志の芸とも通底している。ステレオタイプな言葉、態度を拒否しながら、真底、愛情が感じられるっていう。「主観長屋」にしても「落語チャンチャカチャン」にしてもイリュージョンって“愛あるポストモダン”だもんね。脱構築の技法と落語へのオマージュが共存し、芸として成り立つってのは、勿論、立川談志の力量あってのものである。




わが落語鑑賞 (ちくま文庫)
販売元: 筑摩書房

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