全作品に談志独自の解釈が施され、古典落語が見事に息を吹き込まれている。特に、やかんの話が全く出てこない「やかん」は、まさに「イリュージョン」。落語ファンならずとも、物語とイリュージョンに興味のある人全てにお勧め。
これこそ真の落語だ!
行き倒れを自分の友達だと思い込み、「あいつはボォーとしてるから気がついてねえんだ」と長屋の「本人」に知らせにいく男、「お前は死んだ」と言われて「自分の」遺体を引き取りに行く男。従来「粗忽=そそっかしい」で片付けられていたこの男たちの姿を、談志師は「主観の強い人間にかかると、客観なんてものは揺らいでしまう」というテーマに読みかえた。
また「鉄拐」の、欲で穢れた人間界を毛嫌いして清貧を良しとしてきた仙人が、「先生」とおだてられ、美味いものを与えられるうちに徐々に「俗物」へと変化していく姿の描写は、談志師の本領発揮というところだ。
談志師の落語はいつでもテーマが鮮明だ。談志師の落語で、私は始めて「鉄拐」の面白さを知った。
「落語論二」と題されたこの全集の第十一巻では、落語の本質やこれからの落語の姿について、談志師の卓見が余すことなく(談志師には、『まだ余しているよ』と言われるかもしれないが)語られている。この本を読んで、やっと私は談志師の言わんとするところが分かった。と同時に、靄がかかったようにぼんやりとしていた自分の中の「落語」の定義が、くっきりと姿をあらわしてくるのを感じた。
「『文七元結はつまらない咄だね』と言う客を『落語の分からない客だ』と切り捨てるのは簡単だが、それでは落語は立ち行かない。そういう客が今では大多数なのだから」
全くその通りだが、その状況を打開する方法を考え、実行できる落語家は一体何人いるのだろう。
いや、それ以前に、落語の本質を談志師ほど的確に掴んでいる落語家は一体どれほどいるのだろう。
多くの落語家がこの本と同じような考えを持っていてくれれば、と、一落語ファンの私は祈るような気持ちになった。