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和書 554120 (161)



過渡期の哲学 (こぶし文庫―戦後日本思想の原点)
販売元: こぶし書房

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平太の戊辰戦争―少年兵が見た会津藩の落日 (角川選書)
販売元: 角川書店

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これは会津藩少年兵遠藤平太(当時満15歳)の日記から戊辰戦争に動員された少年たちの戦いを描いたものである。越後は会津藩の補給路であり、また奥羽越列藩同盟の戦略拠点として長岡藩、米沢藩などとの共同作戦を展開しており、会津からは最精鋭部隊が送り込まれていた。平太の育った村からも父も含め36人が従軍を志願する。
平太らは長岡郊外の榎峠、朝日山攻防戦に参加、朝日山では圧勝する。しかし長岡城落城の知らせを受けていったんは加茂に退き、長岡城の奪回に燃えて平太らは与板攻撃に参加する。しかしそこで数十門の大砲攻撃を受けて退却、再び水原に進軍するが赤坂山の戦いで平太の父が左腕に貫通銃創を負い、治療のため会津若松に退く。若松城攻防戦の最中に父は亡くなり、平太も病に倒れ、二度と戦いに戻らなかった。維新後平太は村で製陶業に従事、その後村会議員、村長を務めた。
平太父子の従軍を描きながら北越戦争、若松城攻防戦を丁寧に説明してあり、写真も豊富で好著であると思う。




古代日本のこころとかたち (角川叢書)
販売元: 角川学芸出版

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日本文化の基層にあるのは何か。
古代国家の姿を総合的に究明し、日本文化の基層に迫る上田正明氏の最新刊である。

島根県立古代出雲歴史博物館・皇学館大学共同講演会で、上田正明氏の講演を聴き、会場で購入した一書である。
T倭国から日本国へ
U神話・伝承と歴史
V皇統の推移と新政
W原神道と鎮守の森
X京の森とまつり
の5章からなる。
なかでも、「倭国から日本国へ」の章は、日本の古代国家成立を東アジアと連動する世界のなかで究明しており、一気に読み進んだ。
また、神話・伝承と歴史の章も、「古代出雲」を知る上で、必読の論考である。




神秘家列伝〈其ノ壱〉 (角川ソフィア文庫)
販売元: 角川書店

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ぼくは水木しげる先生の伝記ものが本当に大好きです。人物が実に生き生きしているし、絶妙な間合いというか独特の雰囲気が全編に漂っていて、なんとも言えず引き込まれるんです。

本書には、科学者であり神秘体験者であるスェーデンボルグの一生、チベットの瞑想修行者ミラレパの一生、ハイチの独立とヴードゥー教の成立の歴史、明恵上人の夢とその一生がおさめられています。どれも、水木先生が長年追究している目に見えない霊界に関するもので、不思議な話ばかりです。じつに面白い!

でも、不思議なもので水木先生の漫画を愛読していると目に見えない世界をあーあるかもなあと普通に受け入れられるようになってきます。人間の知っていることなんて、全宇宙の広大さから比べれば、ゼロと同じですもんね。




定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)
販売元: 角川書店

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 学生時代に熊野の本宮から小雲取、大雲取を越えて那智へ抜ける道、つまり中辺路を初めて歩いた時のことです。鬱蒼と続く杉林をひたすら歩いて峠を越えると、いきなり眼前に真っ青な太平洋が広がっていました。それを見た僕はもの凄い開放感と感動をおぼえ、思わず唸り声を上げたのです。その時、僕は熊野信仰の原点を体感したような気がしました。
 『言語にとって美とはなにか』の中で吉本隆明氏は、初源の言葉というのは神と交流するための言魂的な呪言であった書いています。そして、「原始人が奥深い山の中を彷徨い続けたあげくに海にたどり着いた時に、感動のあまり発した「うっ!」という唸り声が「海」という語の語源であった可能性を捨てさることはできない」と書いています。
 勿論、吉本氏は言語を構造や記号として捉えることを否定しているわけではありませんが、同時にそれだけでは言語の本質には届かないとも考えています。この「うっ!」=「海の語源」という話は、言語を構造や記号としてのみとらえようとすることに対する警鐘として捉えるべきなのでしょう。
 何故か僕の中では、大雲取越えの際に山の上から熊野灘を見たときに受けた感慨と上述の吉本氏の言葉がふと重なってくるのです。




光さす故郷へ―よしちゃんの戦争 (角川ソフィア文庫)
販売元: 角川書店

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戦争関連の本というのは、とにかく凄惨な描写が先行しがちで、読むと
息苦しいものが多く、普段は余り進んで読む気になれません。
けれど、この本は次々に困難で悲しい出来事を描きながらも、語り口が
優しく、言葉も平易なものを選んで書かれているからか、状況の悲惨さ
よりも主人公「よしちゃん」の気持ちの方が胸に迫ってきて、それが

却って静かにこころに響くように感じられます。
押し付けがましさや説教臭さがないので、多分素直な気持ちで読み終え
ることができるはずです。

なんだかんだ言いながらも今は気楽で甘えた毎日を送っていて、今更
それをやめたくはないけれど、せめて年に1回、例えば8月や12月に
読んで戦争の愚かしさについて考えるための本として、とてもおすすめ
!です。




巨悪は眠らせない―東京地検特捜部 (角川文庫)
販売元: 角川書店

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雲の涯―中学生の太平洋戦争 (角川文庫)
販売元: 角川書店

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心の海を探る (角川文庫)
販売元: 角川書店

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遠藤周作は、「カトリック作家」ということになっています。カトリック信徒は、その公の言動において、カトリック教会の教導権の教えを否定するような言説をばらまくことはなんらゆるされていません。(教会法1369条、1371条など参照。)
 しかるに遠藤周作は例えば、

「それはこの婚姻の席でイエスが「水を酒に変えた」という象徴的な出来事の意味である。 聖書の中ではイエスの奇跡として語られているこの行為は、実はイエスと弟子達との関係を暗示しているのだ。」
(遠藤周作「イエスの生涯」新潮文庫p.39)

「イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。・・・子を失った母の手をじっと握っておられたが、奇跡などはできなかった。」 (同p.95)
「現実に無力なるイエス。現実に役に立たぬイエス」 (同p.191)
「現実には力の無かったイエス。奇跡など行えなかったイエス。」(同p,213)

 と、カナの婚礼における奇跡の事実性を否定し、イエスには「奇跡はできなかった」と繰り返し執拗に主張しています。すなわち、福音書における奇跡の記述はいずれも事実ではありえない、私はそのようなことを断固として否定する、と繰り返し明言しているわけです。

 いうまでもありませんが、このような解釈は過去のいかなる教会教父、教会博士によって主張されたこともありませんし、現在のカトリック教会の教えでもありません。

 第二バチカン公会議「教会憲章」58を読めば明白なとおり、ヨハネによる福音書第二章のカナの奇跡のエピソードの史実性は当然の前提とされています。

 つまり、遠藤は第二バチカン公会議の教えを攻撃しているのです。

 聖書の入門書としてはリチョッティ「キリスト伝」や、福者アンナ・カタリナ・エンメリックの著作をおすすめします。

 また、遠藤が依拠した聖書学者の見解の多くがなんら論理必然的なものでないということにかんしては、William G.Mostの著作を参照することをおすすめします。(Catholic CultureやEWTNといったサイトで公開されています。)

 また遠藤周作は「私にとって神とは」(光文社文庫)p.166、p.215でテイヤール・ド・シャルダンを絶賛していますが、ヴァチカンはこの本の初版の出版の前に二度にわたってテイヤールの著作に関する厳しい警告を出しています。

「(テイヤールの流通している諸著作が)カトリック教義に反する曖昧性や深刻な誤謬を含んでいることは十分に明白である。

それゆえ、・・・聖庁は、全ての教区司教、修道会上長、神学校校長、大学総長に、テイヤール・ド・シャルダン神父と彼の追従者の諸著作によって引き起こされている危険から、人々の精神を、とくに若い人々のそれを守るように強く勧告する。」 (WARNING REGARDING THE WRITINGS OF FATHER TEILHARD DE CHARDIN ,Sacred Congregation of the Holy Office )

 以上のようなヴァチカンからの警告にもかかわらず、またそれは現在も何ら撤回されていないにもかかわらず、遠藤周作や上智大学教授百瀬文晃師、オリエンス宗教研究所をはじめとして、日本のカトリックの中にはテイヤールの教説を支持する人々が数多く存在し、またその言説は広い影響力を及ぼしています。大変危険な状況です。

 テイヤール主義は、「進化する神」という思想を提唱している点で、神の不変性を主張するキリスト教の正統的教義と正面から矛盾するばかりでなく、神智学・ニューエイジ的疑似宗教にかぎりなく接近しています。現にニューエージャー自身が、自分たちの思想の先駆者としてテイヤールにしばしば好意的に言及しています。(ファーガソン「アクエリアン革命」実業之日本社など参照。)ニューエイジ運動は教皇ヨハネ・パウロ二世の著作「希望の扉を開く」(新潮文庫)で、「新たなグノーシス主義」として鋭く批判されました。

 テイヤール主義に関する最も徹底した批判文献としてつぎのものをおすすめしておきます。
Wolfgang Smith,Teilhardism and the New Religion (TAN Books)




死刑執行人の苦悩 (角川文庫)
販売元: 角川書店

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1978年から、1993年までの死刑執行数は、3 1 1 1 1 1 1 3 2 2 2 1 
 0 0 0 7 となっている。一方、日本の殺人件数は一貫して減り続け、平成19年には、
戦後最低の1,199 件だった。日本の殺人発生率はイスラエルを除いて、世界最低だ。本来なら、
威嚇効果としての死刑執行数は減ってよさそうなものだ。
ところが、死刑執行数が司法行政挙げての厳罰化の中、増え続けた。
2007年は、9(年間は10)、 2008年は三ヶ月を余して、既に13だ。さすがに20を超えそうもないが、いまや日本は世界的な死刑大国になった。死刑制度こそが最良の凶悪事件対策という信念があるかのようだ。
平成初年から三年間、死刑が執行されなかったのは、天皇の代替わりを血で汚すまいとしたのではない。
1989年に国連総会で死刑廃止条約が採択されたからである。日本国憲法では世界の協調することを誓い、
世界から孤立することを誡めている。さらに、恃みの米国や中国でさえ、執行数を減らしている。
ところが、日本は死刑政策に関しては孤立を選択したようだ。
大塚公子は決して、この書で凶悪犯に寛容であれ、と説いているのではない。
命の重さをもっと真剣に考えて欲しいと訴えている。著者は「菩薩本生鬘論」を引き、命の重さには 差別のないことを説明している。そして、何より、反省悔悟した死刑囚は、荒れ果てた命から解脱するだけでなく、新しい人格に生まれ変わることもあるとしている。著者は、拘置所が用意する更生プログラムを紹介している。
その結果、死刑囚は贖罪できるだけでなく、命の重みを知る。中には、常人にも及ばないような境地に達することもあるとしている。
私達は悉有仏性というように、 人間の本質は善だと私達は信じきるべきなのだ。加害者は必死で努力して、
被害者の心の痛みを感じるべきなのだ。そして、拘置所の職員達は加害者の命と被害者の命の重みが、ぎりぎりで釣り合うことを願って手助けをする。
それのみが加害者から被害者への供養となると、 筆者は訴えているように思う。
そんな更生した尊い命を奪わなければならないのが刑務官の職務の一つなのだ。
矯正教育と死刑執行の役割を同時に果たさなければならない彼等の無念を、私達はどれくらい知っているだろうか。
著者は退官した元拘置所長にインタビューしている。
拘置所長は「人間として、こんな恥ずかしい制度はない」と言う。
幼女殺人で死刑が確定した小林薫被告が小学校5年生の時、下の弟に対して書いた詩がある。 この男も人の子だったということだ。
裁判官は死刑判決で、「矯正の可能性が皆無」と断罪した。しかし、更生の可能性は本当に皆無だったのだろうか。
「Mよ
僕やHは
お母さんの顔を知っているけど
おまえは知らない。
でもMには
お母さんのかわりの
おばあちゃんがいる。」
「Mよ
おまえが十才になれば
ぼくは
お母さんのことについて
話したいことがある。」
「お母さんは
ぼくがいたずらをしたら
しょっちゅうおこっていたけど
おまえが生まれる前の日は
早く生んで楽になりたいといっていた。
お母さんが家に帰ったら
おいわいをしょうと思っていたけど
おまえが生まれるとき
出血多量で死んだ。」
「おまえは
お母さんの身がわりだから
大切に
育ててやる。
(詩の中のMとHは実名)」


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