なぜならここには田舎で働く人の無意識のリアリティーが淡々と映像をつなぐ事{生活する人々の描写からその人々が暮らす建築を俯瞰するというパターンやその内部からの視線〔バルト「エッフェル塔的」〕}によって暗示されているからだ。場所が特定できない上、
それを説明する言葉が挿入されていないのも効果的だ。
さらにKOYAANISQATSIでの水平と垂直が強調されたロン・フリックのカメラワークと対照的に傾いたアングルでダイナミックな絵が加えられているのも成功している。
サウンドに関してはKOYANISQATSIよりは撮影時の音声が生かされている点において映画的だ。
個人的にはサンプルベースの加工を(特に群集と喧騒が現れるシーン等に)〔メロディックなシーケンスでは情緒的過ぎる為〕増やして欲しかった。
(フィリップ・グラスはオーケストラワークに専念した方がいいのでは、と思った。なぜなら、反復する旋律より主的旋律の方が魅力的で、それを導きだす為の反復であったとしても制作上の理論や手法が聴衆に対しむきだしにされているのは<(これは近代芸術に共通する)聴衆を無視するのが美徳であるかのような>あまり感心できない。
映像上では何度も繰り返しフレームに収められている子供たちが印象的で、「人間の何も持たない状況からの視線」を鑑賞者の脳裏に呼び覚ます。
(まるで都市には子供がいないかのようにじっくりとカメラは凝視している。)
そこから様々な要素が効果的(原始的労働、重工業、そして物流へと)な流れを生み出していく。
元々あった世界からそれ以降の世界への旅として捉えることができる。
つまり鏡張りの世界に機能を付与したシステムが都市であるという認識として読むことができる。(テクノジーに対する批判的視点の強調は、
さも都市と地方は別々に存在していて何も関わりがないかの様なイメージを植え付ける単なる広告的イメージに過ぎない)実際垂れ流されるパブリックイメージが作品中で印象的に使用されている。
中でも特に面白かったのが群集や軍隊の映像をビル郡の映像と組み合わせることによって日本的雑居ビル的文化をも暗示しているように個人的には思えた。
<(世界が収縮し狭くなっているかのような錯覚)
最終的には収束する以外ないのだが…>
余談だが、今作のような対象の記号的扱い(異なる国の映像が矢継ぎ早にスイッチする技法を多用しているという意味で)から象徴的次元に移項した映像がBARAKA〔ロン・フリック監督作〕で単なる環境ヴィデオとしてしか見られない駄作だ。
全体的にこのPOWAQQATSIという作品は、散りばめられている記号の数が適度であるという点と力強い運動が誇張されている点において楽しめる要素が多い。巨大スクリーンで爆音再生すべき映像である。
こういう力のある映像を見ると、日常の中で見る、月や太陽やニュース映像がこれを見る前と見た後では全く見え方が違ってくるように感じる。
簡潔で様々な解釈を許すこの作品だけ見てこのシリーズを理解するのが賢明だと思う。
なぜならここには田舎で働く人の無意識のリアリティーが淡々と映像をつなぐ事{生活する人々の描写からその人々が暮らす建築を俯瞰するというパターンやその内部からの視線〔バルト「エッフェル塔的」〕}によって暗示されているからだ。場所が特定できない上、
それを説明する言葉が挿入されていないのも効果的だ。
さらにKOYAANISQATSIでの水平と垂直が強調されたロン・フリックのカメラワークと対照的に傾いたアングルでダイナミックな絵が加えられているのも成功している。
サウンドに関してはKOYANISQATSIよりは撮影時の音声が生かされている点において映画的だ。
個人的にはサンプルベースの加工を(特に群集と喧騒が現れるシーン等に)〔メロディックなシーケンスでは情緒的過ぎる為〕増やして欲しかった。
(フィリップ・グラスはオーケストラワークに専念した方がいいのでは、と思った。なぜなら、反復する旋律より主的旋律の方が魅力的で、それを導きだす為の反復であったとしても制作上の理論や手法が聴衆に対しむきだしにされているのは<(これは近代芸術に共通する)聴衆を無視するのが美徳であるかのような>あまり感心できない。
映像上では何度も繰り返しフレームに収められている子供たちが印象的で、「人間の何も持たない状況からの視線」を鑑賞者の脳裏に呼び覚ます。
(まるで都市には子供がいないかのようにじっくりとカメラは凝視している。)
そこから様々な要素が効果的(原始的労働、重工業、そして物流へと)な流れを生み出していく。
元々あった世界からそれ以降の世界への旅として捉えることができる。
つまり鏡張りの世界に機能を付与したシステムが都市であるという認識として読むことができる。(テクノジーに対する批判的視点の強調は、
さも都市と地方は別々に存在していて何も関わりがないかの様なイメージを植え付ける単なる広告的イメージに過ぎない)実際垂れ流されるパブリックイメージが作品中で印象的に使用されている。
中でも特に面白かったのが群集や軍隊の映像をビル郡の映像と組み合わせることによって日本的雑居ビル的文化をも暗示しているように個人的には思えた。
<(世界が収縮し狭くなっているかのような錯覚)
最終的には収束する以外ないのだが…>
余談だが、今作のような対象の記号的扱い(異なる国の映像が矢継ぎ早にスイッチする技法を多用しているという意味で)から象徴的次元に移項した映像がBARAKA〔ロン・フリック監督作〕で単なる環境ヴィデオとしてしか見られない駄作だ。
全体的にこのPOWAQQATSIという作品は、散りばめられている記号の数が適度であるという点と力強い運動が誇張されている点において楽しめる要素が多い。巨大スクリーンで爆音再生すべき映像である。
こういう力のある映像を見ると、日常の中で見る、月や太陽やニュース映像がこれを見る前と見た後では全く見え方が違ってくるように感じる。
簡潔で様々な解釈を許すこの作品だけ見てこのシリーズを理解するのが賢明だと思う。