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和書 1093102 (285)



緑の館―熱帯林のロマンス (ちくま文庫)
販売元: 筑摩書房

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妖精詩集 (ちくま文庫)
販売元: 筑摩書房

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「幼な心の詩人」と評される、英国の詩人、幻想小説家ウォルター・デ・ラ・メアの詩に、ドロシー・P・ラスロップの愛らしい絵が添えられた、文庫としては贅沢な一冊。 原本は、Down-Adown-Derry (Constable Co.Ltd.,London,1922)。

デ・ラ・メアの作風は、「夢の中に暮らす幼年期の感性」と、あとがきで荒俣氏も述べているとおり、じつに夢幻味あふれるもの。 妖精を題材にした詩の数々は、昔話のような味わいもあり、読んでいるうちに、夢と現の境界が曖昧になる感覚が味わえるのが魅力。
おそらくは日本人が知っていると思っている妖精像とはまるきり違う、ほんとうにほんものの、英国の妖精たちは、月夜や黄昏、闇の帳の向こう側に住む、妖しく魔的な、だからこそ魅力的な存在。耳もとに、月光のようにあえかな、妖精たちの笑い声が聞こえたかと思うと、そのまま、あちら側の世界へ連れ去されてしまいそうな…。
月光の下、妖精の輪(フェアリー・リング)に誘われ、踏み迷ってみたい方は、ぜひ一度お手にとってみてください。




知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
販売元: 平凡社

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端的に指摘すれば、本書を通っているドグマは「知識人はどんな場合にも、二つの選択肢しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。」(p61〜62)というものだ。サイードがとるのはもちろん前者である。そして、彼によれば、知識人というものは「なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間」(p49)であり「権力に対して真実を語ること」(第5章表題)をしなければならないのだという。

彼の指摘は半分は正しい。正しい半分というのは、知識人は「検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である」べきであり、「真実を語る」べきであるということに対してである。正しくない半分というのは、批判をしたり真実を語る対象が一方に定められている点である。知識人は、相手が権力者であろうと弱者であろうと、要するに誰であろうと、無批判な追従はすべきでないし、自身の思惟に基づいて真実を語るべきである。
サイードの論の根本的な問題点は、「権力・伝統=力を持つ者=悪/マイノリティ=弱者=善」という、ステレオタイプな二項対立に固執してしまっている点にある。任意の議題に対して、権力サイドの主張が正しいか、それとも弱者サイドの主張が正しいかは、それは実際に双方の意見を聞いて、きちんと考えた上で下される結論のはずである。すなわち、権力サイドの意見も弱者サイドの意見もきちんと聞いた上でならば、知識人はいかなる結論をも下しうるわけであり、そこでたまたま権力サイドの主張の方が妥当性が高いと判断したところで、それはなんら問題ではない。
ところが、サイードは、双方の意見を聞いて自身の見解を出す前に、「先行して」弱者サイドの主張をそのまま自分の意見にしなければならないというのだ。

そして、彼に言わせれば、知識人が権力サイドの主張の方に妥当性を認めることは「迎合」「屈服」「何も考えていない」ということと同義なのだ。

以下は推測だが、サイードは、力によって目を曇らされない限り、思考力ある人間ならば誰しも自分と同じ結論に達し、同じ主張を行う、と信じ切っているのではなかろうか。
だからこそ、彼は湾岸戦争について「(前略)戦争と、それに付随する殺戮という目標を回避できたであろうべつの選択肢をしめすことこそ、当時、知識人が果たすべき責務であったのだ。」(p48)と言う。彼が何らかの思惟を経て湾岸戦争に批判的な見解を抱くのは自由である。しかし問題は、彼以外の知識人もまた、彼と同様の見解を抱かねばならないという点にある。

こうした知識人の最大の問題点は、自分たちのような「反=権力」「反=政府」の思想が知識人界においては圧倒的多数を占め、主流化し、力を握るようになっているにもかかわらず、その力の存在をひた隠しにし、自分たちこそは少数派、弱者であると言いまわっている点にある。今日のように、警察が権力批判者を刑務所にぶち込むことなど考えられない先進国では、知識人にとっての「権力」というのは、まさしく知識人の世界において自分の居場所をどれだけ安定させられるか、という点にかかってくる。そして、今日の知識人界がまさに「反=政府」で主流をなしている以上、まさしく「反=政府」的なサイドこそが権力サイドなのである。権力の側の主張を行うなとは言わない(これはすでに記した通り)が、自ら権力の座にいながら、他人を「権力の手先」と罵るのは愚劣極まりない。




地中生命の驚異―秘められた自然誌
販売元: 青土社

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知的創造の現場―プロジェクトハウスが組織と人を変革する
販売元: ダイヤモンド社

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組織構成と空間構成を見直すだけで、コミュニュケーションの質が上がり
会社が飛躍的に生まれ変わる事を本書で学んだ。
コミュニュケーション理論の一人者とそれを形にした建築家との共著なので
説得力がある。
名車BMWも彼らの優れた組織と空間から誕生したことが納得出来る。
経営者だけでなく、建築を学ぶ学生にも教科書としてもお薦めしたい。




チベットの民話
販売元: 白水社

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チベット密教の祖 パドマサンバヴァの生涯
販売元: 春秋社

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 この本は、チベットに現在見るような素晴らしい金剛乗仏教が花開く基礎を築き上げ、チベット人から「グル・リンポチェ(尊き師)」として、また「第二の仏陀」として、最も篤く信仰されているパドマサンバヴァ(蓮華生)の生涯を記した書である。しかし、パドマは、公式の歴史書ではサムエェ寺を建立した人物としてしか伝わっておらず、その生涯は主としてパドマを開祖とするチベット仏教ニンマ派に伝わる伝承による。この書も、ニンマ派に伝わるテルマ(埋蔵経)であって、パドマの主要な女弟子であるイシェーツォギャルによって著され、隠され、サンゲリンパなる人物によって発掘された書とされているものである。
 この書は、ピュタゴラスの「密語」、スーフィーの「喩え話」と同じく、インドの伝統で「sandhyabhasa(「日暮れの言葉」の意)」と呼ばれる謎めいた表現が用いられている。秘教を開示する書には、洋の東西を問わず必ず用いられているこの種の表現は、教えを顕すと同時に隠すためのものである。なぜ隠されるのか。イエス・キリストはかつてその使徒たちに言った「あなたがたは神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(マタイ4-11)。
 この書の真の意味は、師から弟子に口伝で与えられるべきものなのである。
 




刑事コロンボ 血文字の罠 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
販売元: 二見書房

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ダイイングメッセージものだが、
犯人が複数犯で、被害者の残したメッセージは、
犯人Aの名をどえりゃあ捻って完全に書き残したのだが、
それがちょっと捻った犯人Bの名前の一部に思えて、
犯人達はメッセージに書き足して、第三者の犯行に思わせるという話。
コロンボのタイトルは二重の意味があるのが多くて、
タイトルとトリックも含めれば、ちょっとは評価出来るが・・・。
血文字の罠を仕掛けたのは犯人がコロンボに対してだけではなく、
被害者が犯人にも仕掛けていたという意味もある。
犯人が馬鹿というか、ダイイングメッセージは血文字に、
決まっているという盲点を突いた点は面白いと思うが、
コロンボのダイイングメッセージものの最高傑作は、
私は○○に殺されたという明確なメッセージの隠し場所を、
書類ケースに付けたキズで示した「第三の終章」だと思うので、
それに比べるとこれは見劣りする。
ダイイングメッセージは犯人に見つかったら消されたり改ざんされたりする。
馬鹿が見たらダイイングメッセージとは思わないが、
頭のいい奴が見れば気付くという「第三の終章」のネタは、
気持ちよかったですね。
最悪の場合は縦棒一本しか書けずに力尽きて死ぬかも知れないが、
それでもメッセージにはなると考え付いた、「第三の終章」
の被害者が、コロンボの世界では一番頭の良い被害者であろうな。




チャイニーズ・マザー〈上〉
販売元: 祥伝社

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チャクラ
販売元: 平河出版社

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せんせいの所感によるとところどころ、ここ違うなぁ、とか言うのだけど、リードビーターの霊性は高いようです。お勧めです。知識ないから評論はできませんが、僕はこれ読んでても内的に攻撃的になったり未完の行者が高談したりと、嫌な意識になったりしません。


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