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和書 492116 (203)



読書について 他二篇 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

Amazonのカスタマーレビュー(口コミ)

ショウペンハウエルの主張の一つに、
「思想家⇔学者」「思索⇔読書」「(古典の)精読⇔(新書の)多読・速読」
といった二項対立を置いて前者に優位を与えている、というものがある。
この主張はもっともではあるが、
一方で誤解を招きそうな一義的な書き方も気になる。
例えば「読書は思索の代用品にすぎない」など。

思索することの材料として読書(インプット)があり、
それを表現する(アウトプット)ということがあるとすると、
思索はその中間にある「咀嚼」のようなものだと思う。
そして思索は、絶えず情報・知識を取り込むような多読・速読では十全になされず、
そうした思索が十全になされていないで書かれた書物のことを
「悪書」といっているのではないだろうか。

古典を精読することの意義はそこにあると思う。
新書の多読・速読に比べて、精読することには読者が思索する余裕がある。
書かれた内容について吟味しながら、自身の思索を深め、読み進めることが出来る。
(何もしない、無為な時間を過ごすのが思索の基本であるという意見もあるかもしれないが)
とすると、古典が精読に向いているということは確かにあるが、
読む本自体(古典/新書)よりも読み方(精読/多読・速読)を
問うことの方が本質的なのかもしれない。
もちろん、精読することが常に良く、多読・速読は悪いということでもないと思う。




知性について 他四篇 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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 哲学というものを手にしたのはこの本が初めてです。
 なんとも毒舌でユーモアたっぷりの面白さじゃありませんか。
 哲学書というとどうも縁の遠い小難しいものだと思っていましたが、本というものは読んでみないと分からないものですね。展開されるハウエルの痛烈な皮肉や批判、賢者と愚者の見分け方、愚者の手口の数々。考え方によってはただの悪口本のようです。
 不届きにも電車の中で笑いをこらえつつ読んでしまいました。
 納得できる内容あり、突っ込みたくなる内容もあり、ハウエルの皮肉とユーモアが良いのか、はたまた哲学とはそもそもこれ程面白いものだったのか、この本以外の哲学書を知らないので何とも言えないのですが、哲学が小難しいものだと思っている毒舌好きの人にはお勧めの一冊です。




反復 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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カミュの何の作品だったか、「どんな人間でも、今生きている親友が死にその葬儀に参列する自分の姿を想像したことがあるだろう」という内容の一文を読んで、はっとした記憶があります。想像の中で親友を殺して過去のものとしてしまう、それは憂愁を帯びた甘い自己耽美なのか、それとも関係が継続することへの恐怖の裏返しなのか。いずれにしても、そこで友情は追憶されるものとなり、実在の親友は私の世界から退き、そして残された私は詩人になる。
本作品の架空著者コンスタンティウスが観察し続ける青年も、恋の歓喜と不安の中で最初の日から恋愛を追憶するのです。「彼は恋愛関係をすでにすっかり完了しているのである。(…)その娘が明日死んだとしても、それは彼にとって何ら本質的な変化を引き起こしはしないだろう」(p. 18)。彼は、詩的創作力に目覚めると同時に、恋い慕う娘が愛の対象でないことに気付き懊悩する。そして、遂にこの恋は青年の失踪という形で破局を迎えるのです。
失踪した青年はコンスタンティウスへ手紙を書き続ける。旧約のヨブ記を引きながら、「反復」をめぐってもがき苦しむ。「ギリシア人は、あらゆる認識は追憶である、と教えたが、新しい哲学は、全人生は反復である、と教えるだろう」(p. 8)。「反復」とは「現にあったことがある」もの、つまり可能態としての現存在が、現実のものとして「移行」すること。失われたキリストは、信じることによって現に在るものとなりうる。この問題は、こうした宗教の問題をめぐって、実際に犯した罪が赦罪によって現実的な原初の状態へ「回復」することへ収斂していくようです。
手紙の最後で自己を回復したと主張する青年。しかし、彼の謳う「回復」は真実の「反復」なのでしょうか。この問題の持つ本質的な複雑さは、安易な判断を許さないように思います。
後の実存文学への先駆けとなった名著。詳細な訳註、解説も大変親切です。




死に至る病 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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 まず本書の内容を要約する(以下、頁数は1957年改版による)。「死に至る病」は、身体における致死性の病等のことではなく(15-16頁)、「精神における病」である(20頁)。だが精神における病といっても、いわゆる「とても落ち込んでいる状態」を指すのではない。そうではなく、人は自分自身と神とに立ち帰っていないことによって、この病に罹る。もし人が真に自分自身と神とに立ち帰っているならば、この病から完全に解放されている。
 ところで、「自分自身と神とに立ち帰る」とはどういうことだろうか。新約聖書ルカ伝15:11-32に、「放蕩息子」というキリストの譬話があるが、以下、その内容に沿って説明を試みたい。この譬話で注目すべきは、放蕩息子は「自分自身に帰って」(15:17)おり、なおかつ「神に立ち帰って」(15:18)いることである。精神たる人間は、自分自身に関係する、自己意識をもつ存在である(20-21頁)。同時に永遠への意識を持つ存在である(旧約聖書 伝道の書3:11、20頁他)。そこで虚無感や、あのことこのことについての絶望は、実は絶望の根本原因ではないことに思い至らなければならない。根本原因は、人が永遠なる神から離れており、なおかつそのことの重要性を認識していないことにある。ゆえに人は絶望し、死に至る病にかかっている(ルカ15:17)。そこで人は「自分自身に帰って」、自分が「父の子」であることを思い起し、父なる神の元に立ち帰らなければならない。そうするときに、絶望から完全に解放される(22-23頁、215頁他)。
 最後に、私自身の感想を記す。私自身、著者キルケゴール同様に虚無に苦しんだ。そしてキルケゴール同様に、虚無の癒しはある、そしてそれはキリストの元にのみあると信じる。自身の感じた虚無感は、神から離れている、という絶望の自覚症状の表れに過ぎない。神には一切が可能である。自分自身に立ち帰り(悔い改め)、神に立ち帰る時(信仰をもつとき)、一切の絶望が癒されると信じる。





現代の批判―他1篇 (岩波文庫 青 635-4)
販売元: 岩波書店

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《専制政治の腐敗や革命時代の退廃はしばしば描写されてきたが、情熱のない時代の堕落もそれに劣らず危険である。ただそれが曖昧であるために、あまり目立たないだけのことである。それだから、このことを考えてみるのは、たしかに、それ相当に興味のあることでもあり、意義のあることでもあろう。そこでは、ますます多くの個人が気の抜けたような無感動のゆえに、無になろうと努めることだろう、――それも、公衆に、参与者が第三者になるという滑稽な仕方でできているこの抽象的な全体に、なろうがためなのだ。》

 キェルケゴールは第一に名文家であって、迫力のある文章や巧みな比喩で読者を引き込むことができる。それは、彼自身の苦しく切実な信仰によるものなのだろう。本書で彼は情熱のない、おしゃべりばかりする公衆をこき下ろしている。そして、その公衆の主食と言うべき餌が新聞なのだ。19世紀前半において、マスメディアが既にそれほどの影響を持っていたことは驚きであるし、キェルケゴールが後の大衆社会の危険性を充分に見抜いていたことにも驚かされる。 




眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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聖書からの引用がとても多く、心に残る言葉もたくさんあった。
最初のうちは眠くなってしまって仕方なかったが、中盤あたりから
のめりこむようになった一冊。




悲劇の誕生 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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ニーチェの処女作にして古典文献学会から追い出される羽目になった著書。
異を唱えたいのは、訳者秋山氏による巻末解説。彼の文を読む限り「悲
劇の誕生」がなぜよいのかがわからない。そこからは「ニーチェが牽強
付会、強引な論述の数々をおこなっている(苦笑)。天才だからしょう
がないよね」というネガティブかつ思考停止な評価しか伝わってこな
い。秋山氏がなぜニーチェを評価しているのかとても謎。しかもちゃん
と理解しようとさえしていない態度に噴飯。たとえばソクラテスを主知
主義者としたり、ムーサイの術を音楽(music)に解釈したりするのは
ニーチェの強引なやり方の現れとしているが、19世紀〜20世紀初頭では
上記解釈が通説だったので(例えば同時代人のヴィンデルバントやシェ
ヴェーグラーはソクラテスを主知主義者と規定しているし、20世紀初頭
の英書などではmusicと訳している)、別段ニーチェ特有のことではな
い。




ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2
販売元: 岩波書店

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ニーチェは、人を衝き動かしてきた意志というのは、力への意志だったと説きます。 すなわち、自らを権威あるものとして、他人を屈服される力を持とうとする意志です。 この意志を元に、人々は権威を形作り、それは、善悪の基準付けを行ってきました。

しかし、この意志を持つ人間は弱い存在でした。 だから、同情、隣人愛を自らを権威あるものとするための道具としました。 その産物が国家であり、キリスト教であり、神であったとニーチェは喝破します。 このような弱い人間というのは、動物と超人の間にかけられた橋のような、過渡的な存在であり、乗り越えられないといけない存在なのであると、ニーチェは考えました。

人間がこれまでの弱い人間を乗り越えるとき、神とその愛、同情により作られていた世界観は終わりを告げます。 ニーチェはこれを、「神は死んだ」と表現します。 神の死んだ世界で生きていくのは、人間を乗り越えた超人です。 この超人は、意志、自由、創造力、孤独、自分自身への愛といった特質を備えた人間です。 同情されなくても、他人に思いやられなくても、生きていける存在。


キリスト教的な世界観をもっていた時、人々は、自らの人生の終焉を、審判の日とそれ以降の天上での生活に落ち着ける事が出来ました。 しかし、それら世界観が崩れたとき、大きな精神的危機が襲いかかってくることになります。 ニーチェは新たにとって変わられる世界観は永劫回帰とよばれるものだと考えました。 これは、生がまるで何回も同じ場面を繰り返していると考える世界観です。 

事実、この永劫回帰の世界観に陥ることは、現代における無宗教で「自分主義」の人々にとって深刻な問題なのではないかと僕は思います。 信じるものは無い、生はただ進むことのないルーティンでしかない、となれば、人生が虚無に思えてきます。 

このような、神から脱却したのちにも虚無に陥らないための方法としてニーチェが主張した事は、自らと自らの人生を愛することでした。 もし自分の生が永遠の円環の輪の中で逃れられないものなのだとしたら、その人生を受け入れるためには、この永遠の円環である人生を愛さねばなりません。 他人への愛は、その自分への愛の中にこそ存在するべきものなのだとニーチェは考えたようです。 そして、本書の中では、その自分を愛することから得られる喜びがうたわれています。


本書その他を読む限りでは、「人間は乗り越えられなければならない」というのは、ニーチェの価値判断であり、論理的な帰結ではなかったように思われます。 でも、本当に乗り越えられないといけないのでしょうか。 人間の持つ弱さを抱いて、お互い弱さを援け合いながら生きることは、それはそれで素晴らしい人生なのだと僕は思います。 (ごめんなさい、でもこれはこれで僕の価値判断です)

ニーチェが、吐き気を催すような奴隷道徳と批判しようと、人間の弱さというのはそんなに簡単に変わるものではないので、今は、自らを超克することを考えつつも、周りの人と援けあって生きていくことこそが一番なのだと思います。 もっとも、1000年後には、分かりませんが。






ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3
販売元: 岩波書店

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この訳では意思の力が誤解されるかもしれない。

そもそも本来的には意思の力とはなんだ?とニーチェに尋ねたところ、次のような答えが
返ってきた。

それは僕たちが生まれる以前、太古の昔から世界に根源的に存在し流動するエネルギーを受信しようとする意思のことである。われわれ人類はただの蓄群を超克し、ハイファイな受信機に自分を改造しなければならない。

そして我々はその根源的なエネルギーを受信しつつも、それを価値のあるものに変換していかなければならない。それは強者のニヒリズムだ。君は積極的に無意味な物、無価値なものを、ニヒリズムを、創造していかなければならない・・。そしてそれを超克していかなければならない。虚を実にするかの如く・・・・。

*この話は半分フィクションですので真に受けないでください。




道徳の系譜 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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“道徳の系譜”は“ツァラトゥストラ”と並んでニーチェの最も重要な著書ではないかと思います。 この本を読むと、ニーチェという人が何と戦っていたのかがよく分かります。 彼は恐らく、ヨーロッパ人というものが、異人種の宗教に征服されたということに我慢がならなかったのでしょう。 これは分からないことではありません。 欧米人は今でも平気でジョンとか、ポールとかいう(もともとユダヤ人の)名前を子供につけますが、例えば日本人が子供にベトナム人やタイ人の名前をつけたら我々はどう感じるでしょうか? 彼らが日本人より優れていようが劣っていようが、私たちはそれに納得できるでしょうか? それと同じことが欧米では二千年にわたって続いているわけですが、ニーチェにいわせれば、これはユダヤ人の文化・思想に、ヨーロッパ人が屈服したことのあらわれなのでしょう。 彼の(キリスト教に犯されていない)ギリシア・ローマへの偏愛はちょっと尋常ならざるものがあります。

ただ、ルサンチマンというのは決してユダヤ人の専売特許ではなく、人類普遍のものだと私自身は思っています。 キリスト教以前の時代の、強者の部類に入る人にだってあったのではないでしょうか? ニーチェの著書は日本では大変な人気ですが、二千年近くにわたって、中華文明やヨーロッパ文明やアメリカ文化といった、自分たちより圧倒的に強大な存在たちとの対峙を余儀なくされてきた我々日本人も、常にルサンチマンに飲み込まれて自分を見失う危険と隣りあわせで生きていると私は思います。 ニーチェの本はそういった状況下の我々自身の存在に喝を入れるために読まれるべきなのではないでしょうか? 彼自身はキリスト教が完全に浸透しきったヨーロッパで孤立無援の悲惨な戦いを繰り広げました。 その悲壮な覚悟は時として、私たちにはもう理解不能なほど無茶苦茶な罵詈雑言の言葉となって彼の著書に散見されますが、彼の哲学の本質は人間の弱さを逃げずに見つめ、それを克服するための道標としての教えなのではないでしょうか。


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