記者というと、現場に赴いて記事を執筆する人を連想する。しかし、彼らが表舞台の人間とすると、裏には整理記者がいて、整理記者の手を経ない限り、けっして紙面化することはない。本書では、日本敗戦、第二室戸台風、ケネディ暗殺など、十二の大事件を例に、して、そのとき、整理記者はどのように動いたかが画かれている。
本書は、おそらく著者自身であろう、有竹文太という架空の人間を通して、話を進めており、フィクションとしてのセリフがある。セリフにより、わかりやすく、かつ読みやすくなっていると言える。しかし、現場を画いた「事実」の部分が、迫力ある内容だけに、フィクション部分の存在は残念である。好みもあるだろうが、事実だけで押し通した方が、おもしろかったのではないかと私は思う。
事実の部分では、死亡記事の扱いに関する箇所がおもしろかった。通常、社会面の下段にある死亡記事が、誰が死ぬと一面になるのか、あるいは社会面になるのか。田中角栄は一面トップと号外。美空ひばりは、一面と社会面両方のトップ。三遊亭円生とパンダのランランは同じ日に死んだ。毎日と朝日はランランを一面と社会面のトップにし、円生は社会面の二番手。読売はランランを一面、円生を社会面のトップにしたという。ランランと円生の死を、どういうバランスで扱うかが、整理記者の手腕の見せ所である。こういう事実の話をもっと読みたかった。
「俺はこのように活躍してきた」という、著者の回顧と自慢の本として本書を捉えて読む方法もあるかもしれない。そうだからといって、整理記者にスポットをあてたという本書の価値は失せることはない。戦後の重大事件の概要を再確認することもでき、読んでみる価値はあると思う。
我々は今大量生産製品に囲まれている。伝統的な「大企業」の解釈は「大量生産製品を売る会社」である。マスメディアはその知名度に反して大企業の孫請け程度の規模しかない。この書物の扱った時代のすぐ後、20世紀の後半は大量生産品を売るための外注下請けとしてマスメディアが利用された時代だった。一次産品を原料として高度な「金物」を大衆に製造販売するのが大企業である。でも大衆はどこに? マスメディアはヒトを原料にして大衆の製造を担当した。それまで大衆などというものはなかった。紙面や放送時間は記事や番組のためなどではなく、企業広告のための枠・乗り物だった。あまつさえ記事や番組は「大衆製造」のために意図的に「低劣」にする必要があった。大衆は「自分がちょっと上」意識によって大衆となり、目的は十分に達成された。「お客様は神様です」と言ったのは芸人だが、これを今もって信じている者は大衆である。ただし、相当恥ずかしい。芸の低劣は、それを営業する精神の低劣を意味しない。当たり前だが台本は演じるものであって信じるものではないし、芸人は宣教師ではないから信じていないことを言って良い(宣教師は信じているなら何を言っても良い)。だったらメディアは発信者と受信者の間の「空虚」なのか? 一方で、金持に対する嫉妬表明は別の大衆になるだけの話だし、「世界で一つだけの花」のフリまねを客席一斉にしている内は歌詞をちゃんと聴いているとは言わない。やっぱりメディアは不滅とも言えそうだ。著者には、この辺の現在と未来を、得意の考証とともに (たぶん100倍の分量が必要だが)期待したい。