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和書 492240 (366)



和声法―和声の構造的諸機能
販売元: 音楽之友社

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和声―理論と実習 (1)
販売元: 音楽之友社

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和声の正しいつけ方、そして、和声全般について勉強していくとき、まず頭に浮かぶものに、和声学、いわゆる古典和声学という学問がある。この古典和声学というのは、古典的な意味での正しい和声のあり方がひとつのルールとして完成されたものだ。したがって、この古典和声学に従って忠実に和声をつけていくと、古典音楽として正しい和声の進行と音の列ができることになる。ここで気をつけてほしいのは、まず最初に古典和声学という和声の進行や音の進行のルールが先にあって、バッハやハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典音楽の巨匠たちは、そのルールにのっとって曲を書いたのではない、ということだ。それとは逆に、それらの巨匠たちの古典音楽がなぜ美しく聞こえるのか、なぜああいう風に響くのかということを、あとから分析してみたら、そのようなルールがあったという順序なのだ。要するに、古典和声学のルールというのは、いわゆるドイツ的な音を書くためのルールと理解すればよいだろう。皆さんが、古典和声学を勉強して、完全にそのルールにのっとって音楽を書くと、非常にドイツ的なクラシカルな音楽ができあがることになる。だが、皆さんが、この現代において、現代の歌、現代の音楽を作る場合、この古典和声学に完全にしばられる必要はない。むしろ、あまりに古典和声学のルール通りの音楽を作ると、現代の人の感性、および社会的な背景から遊離したものができあがるかもしれない。しかし、一方でこの古典和声学のルールというのは、音楽の美しさの普遍性を持っているものであるから、音楽の勉強の基礎、そして、ある程度の常識として、知っておく必要はあるわけだ。いってみれば、目立たない存在ではあっても、建築物の土台となる基礎工事のようなものだ。最終的にはその旋律に対し、どのような和声をつけていくかは、皆さん自身の感性が決めることだ。




私のスペイン・愛の歌
販売元: 同時代社

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私のモーツァルト
販売元: 河出書房新社

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私のレコード棚から (〔正〕)
販売元: 音楽之友社

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私のレコード棚から (続)
販売元: 音楽之友社

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私も「ヴィジュアル系」だった頃。
販売元: 竹書房

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同著者の『私が「ヴィジュアル系」だった頃。』の続編(著者によれば「外伝」ないし「副読本」)。著者の対談相手として登場するのは、(1)自称ヴィジュアル系のJanne Da ArcのボーカルYasu、(2)YOSHIKIと何かと縁が深い小室哲哉、(3)hideやBUCK-TICKの今井寿に絶賛されたために広い意味でヴィジュアル系にカテゴライズされてしまったSOFT BALLETの藤井麻輝、(4)当事者にも関わらずヴィジュアル系アーチストとは異なる存在感をもつX JAPANのPATA、そして、(5)ヴィジュアル系勃興以前のロック少女ファン代表として音楽雑誌編集者の井上貴子(女子プロレスラーとは同姓同名の別人です。念のため)。それぞれの対談の読みどころは以下の通り。

(1) Janne Da ArcがAvexからメジャーデビューした後の最初の2年間の悲惨さ

(2) 小室哲哉にとって、1990年代半ばのTKサウンド人気爆発の伏線となったのが、実はYOSHIKIと1991年に結成したユニットV2でプロデューサー業の面白さを知ったからだったという事実

(3) SOFT BALLETの1995年活動停止の真相

(4) PATAのXに対するプライド

(5) 音楽評論家井上貴子によるビジュアル系勃興直前(デルジベット等)の女性ロックファン心理の解説

登場する対談者たちに興味がなくても、彼ら彼女らの語りを通して、YOSHIKIやhideなどのヴィジュアル系当事者たちの姿が見えてくるので、『私が「ヴィジュアル系」だった頃。」を楽しんだ人は買って損はないと思います。




私の音楽手帖
販売元: 講談社

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私が独裁者?モーツァルトこそ!―チェリビダッケ音楽語録
販売元: 音楽之友社

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チェリビダッケのコンサートを聴いたことがある。大阪フェスティバルホール。曲はブルックナーの8番。その当時、これほど拷問にも似たコンサート体験は無いと思ったものだ。伸びきってふやけきったスルメ。しかもデカイ。当時まだ海賊盤しかなかった幻の巨匠のご大層な身振りが、本物ではないと確信したものだった。
それでも、チェリ自身が亡くなり、子息の許諾を得たミュンヘンのライブ盤が登場したとき、その多くを購入させられた。EMIのブルックナー選集そのほかである。いずれも、はっきり言ってどうにもならない演奏だと思った。一連のCDシリーズではブラームスの『ドイツレクイエム』だけが名盤だと思った。
そして、何年たったか、昨年末、ブルックナー5番の日本公演ライブがアルトゥスから登場した。これが驚くべき名演! というより、ほとんどかつて聴いたこともない響きを湛えていた。こんなことがあるのか? こういうことがあるからチェリは油断がならない。これほどまでに物理的なテンポを意識させない、音楽的時間を体験させてくれる演奏は滅多にない。このディスクとブロムシュテットによるゲヴァントハウス引退公演のブル8ライブ盤が、ショスタコヴィッチへと傾いていた評者の愛をブルックナーへと振り向かせてくれた。誠に感激至極である。ブルックナーは素晴らしい!!!
そしてこの本。これは痛快な本だ。彼の毒舌は勿論だが、意外や意外、その謙虚さに感動した。毒舌から・・・クライバーについて「クライバーは神聖なひびきのわきをすり抜けてゆく。それは悲劇的なことだ」その通り! 
アバド、ベームなどに対する罵詈雑言はもうお馴染み。
マーラーについてはぼろかすだ。大いに頷ける。「マーラーは音楽史のなかで最もいたましい現象だ」
ブルックナーへの敬虔な態度は、やはりと言う感じ。「ブルックナーの<第8番>はエゴから逃れられない人間にとって、それを脱するこの上ない教材である」流石!!
チェリが禅を信じ、西洋の哲学に通暁していることはよく知られているが、次のような率直な言葉には皮肉ではなく心を打たれる。それは現代に最も欠けた精神(特に「美しい」と偽装されるこのニッポンにおいて欠けた)であるからだ。「わたしはなんの成果も生まない分野でも努力をおしまぬ人々がいることに気づいた。その分野とは他の人々の苦しみへの思いやりのある親切心の分野のことで、そこでは日々なすことよりもはるかに多くのことが得られやすい」
チェリビダッケは偉大な魂を持っていたことは疑い得ない。今日もまたチェリの数少ない名盤を聴きながら、酒を傾けることとしよう。チェリはこんなリスナーを罵るだろうが。




我、汝に為すべきことを教えん―作曲家が霊感を得るとき
販売元: 春秋社

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本書前半は最晩年のヨハネス・ブラームスが米人ジャーナリストの乞いに応じ
自らの作曲の源泉について語っている。それはインスピレーションなどという
生易しいものでは、ない。
 音楽界の巨匠達のみならず、ミルトン、シェイクスピアなど、「神」より霊感の
恩寵を賜ったとされる先達を挙げ、さらには、聖書解釈までに話が及ぶのには
驚かされる。
 従来、熱心な「正統派」キリスト教徒であると思われていたブラームスは
イエスを「神」そのものとして崇拝するキリスト教会の姿勢に疑問を呈し
イエスを「良きナザレ人」と呼び、神性(潜在意識)を通常の意識次元にありながら
発揮できた稀有の「人間」であるとする。
 本書はブラームスの希望により、50年間封印され1947年以後の出版となった。
奇しくも1945年にナグ・ハマディ写本が、1947年に死海写本が発見されている。
 本人弁の他の理由はあるにせよ、その慧眼おそるべしである。



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