オーストリアは日本人に愛されている国であり、音楽も美術もよく知られている。だが、それらはどちらかといえば「過去の遺産」であり、日本人はそんな亡霊のような「オーストリアのイメージ」に呪縛されてきたのではなかっただろうか。
著者は、わが国ではめったに紹介されてこなかったオーストリア映画の現存する作品すべてを同国で視聴する、という気の遠くなるような作業を長い時間をかけておこない、ハプスブルク時代から現在にいたるまでの歴史とからめて、その国および文化がいかにスクリーンに凝縮されてきたかを説得力豊かに解説してくれる。まさに感動的な一冊である。映画だけでなく、あまり知ることのできなかった「オーストリアの現実」についても、この本を呼めばある程度理解することができるだろう。
しかし、もっともすぐれているのは、「オーストリア映画」の詳細な紹介がなされていることよりも、「オーストリア」という視点を導入することによって、ハリウッド映画史やドイツ映画史がまったく新たな相貌を見せ始める点にある。私は正直いって、世界の映画史の形成に、これほどオーストリア関係者が深く関わってきたとは想像もしていなかった。わが国では、「オーストリア文化」は「ドイツ文化」と一緒にされてしまう傾向にあるが、この本を読めばそれが誤りであることもよくわかった。
同著者の「美の魔力」もそうであったが、何よりも実!証的で対象に真摯な姿勢には頭が下がる。
『キル・ビル』+『マッハ』の宣伝配給は彼らが築いてきた(もしかしたら壊してきたもの)ものを薄くして口当たりをしたものに過ぎない-DVDのブックレット所収の東映ポスターは当初配給会社は怒っている。情けないではない話ではないか。
彼ら二人に町山氏を加えた周辺で、映画に再びどくどく血が通いだしたように見せかけた功績は大きい。
しかし、彼らはちっとも偉そうじゃない。別に謙遜しているわけなく、単に偉くないんだろう。だからこそ、ここまでやってこれたんだと思う。映画(まあ、映画に限ったことではないが)は偉そうになるとパワーを失う。彼らのパワーは偉くないゆえだと結うことがよおおく解る本だ。