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和書 508072 (361)



さよならの接吻 (ハヤカワ・ミステリ文庫 モースリー博士の事件メモ)
販売元: 早川書房

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~多くの人と同じだと思いますが、出なくなった「ミステリアスプレス」所収の「図書館」シリーズで好きなった作家です。主人公の雰囲気は、どこかしら似ているところがありますが、今回は判事と言うことで、正面から犯罪に取り組んでいくと言う構成です。この作品も、プロットやエピソードに無駄が無く読めます。最近の、アメリカの小説はリアリティを出すため~~に、事件に関係ないエピソードや生活感を漂わせる記述が過多で、私のように物覚えが悪いと、何度も登場人物の名前や人間関係を忘れてしまいます。本作は、そのようなことがないのです。まぁ、悪く言えば、登場人物の描き方は直接的ということかな。~




さよならは2Bの鉛筆 (中公文庫)
販売元: 中央公論社

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表だけ見れば小生意気な美人女子高生の冒険談。裏読みすれば、ハードボイルドをすっかり書かなくなった矢作俊彦へのオマージュ。収録されている「郵便カブへ伝言」は言うまでもなく、舞台が横浜ということもあり、まさに矢作俊彦直伝とも言うべき、洒落た台詞、小粋なやせ我慢のオンパレードだ。それが好きな人にはたまらないが、そうでない人には鼻につくだけだろう。私は勿論大好きである!




さよならは、いわないで―バンパイア・シティ (講談社X文庫―ティーンズハート)
販売元: 講談社

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さよならは、カンパリ・ソーダ (光文社文庫)
販売元: 光文社

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さよならは恋の終わりではなく (角川文庫)
販売元: 角川書店

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この本は、私が失恋した、あの冬に読んだ。今読んだ感想と、当時読んだときの感想は違うと思う。でも、この本は一度でも失恋を経験したことのある人、恋愛に躓いてしまった人が読むのもいいが、新しい恋を始めた人、恋愛真っ最中の人が読むのはもっといいのではないかと思った。恋愛中でも自分と葛藤する彼への思いも描かれているから。「さよなら」は、ただ人と人の別れを意味するものではなく、次への新しい扉を開けるための魔法の言葉のように感じる。自分でしっかりと「さよなら」といえたときから何かが始まると思うから。




さよならは言わない (講談社X文庫―ホワイトハート)
販売元: 講談社

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さよならをするために (集英社文庫)
販売元: 集英社

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内容は読みやすく、最後の作品が感性が素晴らしいと思いますが、
特別な感動はあまりありません。
でも、解説は興味深く読みました。やはり作家の世界は厳しいの
だという感じがしました。
賞をとっても、所詮は甲子園に出場した高校野球チームで、勝ち
続けれれるかは、実力(文書力)なのだと知りました!
通勤で読むには丁度良い作品です。




さよならをもう一度―自選恐怖小説集 (角川ホラー文庫)
販売元: 角川書店

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学生の頃、赤川次郎にかなりはまってました。久しぶりに読んでみたのですが、やっぱりうまいですね。テンポが良くて、読みやすい、しかもとても怖い。おどろおどろしくなく、都会的なだけにかえって怖いのですね。




さよならを言うまえに (岩波現代文庫)
販売元: 岩波書店

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さよならを言うまえに―人生のことば292章 (河出文庫)
販売元: 河出書房新社

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 文化に「ハニカミ」とルビを振ること、大賛成。
 教養とは、ハニカミを知ることなり(私はこの言葉は「エホバを畏るるは知識の本なり」という聖句を基に太宰が作った言葉と見ている)。
 「含羞」(はにかみ)、「羞じらいを含む」、いい言葉だねえ。
 太宰治が放った言葉の断片の数々、一つの言葉を選ぶ、それは、千の言葉を捨てることだ、太宰の言葉そのものも、素晴らしいのだけれど、選者のセンスも光っている。「如是我聞」が最後に配されている点もいい。どなたか、すでに指摘されたことかもしれないが、「如是我聞」は、太宰文学を読み解く一つの鍵である、と私は考えているからだ。「虚妄の権威」志賀直哉(相馬正一氏)への批判の奥には、<真の権威> イエス・キリストへの希求がある、と私は見る(ちなみに福永収佑氏は「如是我聞」というタイトルを、<私は、イエスからこのように聞いた> と解釈されているが、私はその説に従う)。イエスの言葉に、私は、正しい人のために来たのではない、罪人を招きに来たのだ、というのがある。自分は罪人だ、いつか、きたねえことをした(「鴎」)、罪深い人間だ、という罪人意識を持った太宰は、自分を、自分の文学を「正しい」と信じて疑わない志賀の厚顔無恥が許せなかったのだろう。志賀はハニカミを知らなかった、「エホバを畏」れなかったのである。と同時に、自分の罪を自覚していた太宰は、天国に行ける可能性を夢想していたふしがある(ルカ伝23章40節以下の聖句も、それを示唆している)。「人間失格」には対義語遊びが登場する。ある語の意味を捉えるために、対義語を見つける遊びである。葉蔵は言った。自分には地獄は信じられても、天国は信じられない、と。地獄の対義語は天国だ。地獄の観念を捉えた葉蔵は、天国の存在をも信じることが出来たのではないか(木村綾子さんの論が、このレヴューに影響を与えたことを白状しておく)。


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