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和書 508082 (332)



素朴と文明 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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存在の彼方へ (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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 フランス文学科系の超難度の超重要テキスト。
 著者はフッサールとハイデッカーに現象学を学びフランスに帰化したユダヤ人ということである。
 第二次大戦におけるドイツの被害者ユダヤ人、その同胞の「思い出」にと語る冒頭を読むと、存在を抹殺され歴史から跡形もなく消されようとしたある一民族の深い寂寥感とともに、「過去」に「存在」したもの、「過去」の蓄積たる歴史と「存在」したものへの執着があるかもしれない作品なのだとまずは読める。
 しかし、ハイデッカーの『存在と時間』はなんとか読めるし理解もなんとかできた。
 が・・・これは歯が立たたない。
 さっぱりわからない。
 何でわからないのだろうと思いつつ、本棚にあるという具合で、たまに無理して読んでいる。
 しかし、存在を時間との関係でとらえたハイデッカーの場合は「先駆性」という言葉あるように、これは「未来」を先行的に獲得する精神性の表れた作品だとみなすこともできる。
 この仮定を経れば、西田幾多郎「善の研究」は「現在」を獲得する精神性の表れた作品であり、本作品は「過去」である。ジル・ドゥールーズなどは「未来」である。
 木村敏の『時間と自己』などを読むと、この3つの「過去」「現在」「未来」の表れは、その作品をつくる著者の精神性なのだということがわかる。
 本書は「思い出」と語ることから、その表現はほんとうに過去に向いた存在論なのかどうか、検証するように読むとなんとか読めるかもしれない。
 ただ、やはり難しい。わけわからん。以下、感じた、推測するところではこうなる。
 現在を現在と感じているのは現在の自分しかいない。過去の自分は現在の自分に照らし合わせて他者だ。それはまさに、過去になったばかりの、たったいま過ぎ去った過去の自分さえも他者である。しかし、その過去は他者でありながら、自分である。今の自分は過去の自分の身代わりである。過去の自分が今の自分の身代わりとなり、過去となった。過去の自分を成り立たせる歴史、そこに存在して人々も過去であり、現在の自分に精神的に関連している。亡き同胞は生きている。それは・・・「思い出」。




探究〈1〉 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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著者は定義する。「他者」とは対話不能な相手であり、つまり言語ゲーム
が成立しない相手のことをいう。互いに背景(規則・コード)の共同性がない
状態のことだ。プラトンの対話も互いに了解しあえるという意味で
言語ゲームの「内輪」であり、言語ゲームが成立しえない「真の他者」ではない、
とする。

著者にとってみれば、ソシュールもヤコブソンも構造主義もハイデガーも
プラトンも現象学もすべてお互いに了解可能な「内輪」ゲームとして成立しているに
すぎない、これらを独我論だと批判している。相手が了解「不可能」な「真の他者」
ではないから「独我論」だと。
               
さて普通に疑問に思うのは、どうして「他者」をそういう極端な定義を
するか、そして哲学史のほとんどを「独我論」として論難したいのだろうか。
明確な方向はない。ただ文章の端々から感じられるのはムラであれ国家であれ、
とりあえず「共同体」なるものを相対化したい、もっといえば「国家のある種の否定」
が著者には確実にある。

つまり著者の批判対象は「規則」内で成立する言語ゲーム=国家(共同性)であり、
なぜそれを批判するかというと、了解不可能な「真の他者」と向き合えてないからだ。
(著者にとって真の他者は何でもいいらしい:というか意味不明ですよ)

とりわけ著者は「規則」という言語ゲーム成立に不可欠な「歴史的伝統性」を
拒絶したいらしい。共同性の領域内で形成される「歴史的伝統性」に裏打ちされた
「規則」つまりは「先了解(規則・コード・文法・過去から来るもの)」を拒否した
いらしい。つまりは国家的なものを排除したいらしい。

確かにウィトゲンシュタイン解釈は自由だ。しかしどうして反国家・反ムラなのか。
それがよき「生」に繋がる「哲学」「知」の営みになるのか?
思うに、ならないだろう。





チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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大学2年の時にこの本を一通り眺めて、なんだか最先端の思想に触れている気になっていい気持ちになって、でも心のどこかでちゃんと理解できてないんじゃないかというルサンチマンがくすぶっていて、20年の時を経て吉本隆明と糸井重里の対談の「悪人正機」で吉本隆明がこの本を再評価しているのを見て、「もう一度取り組んでみよう」と思い、「アースダイバー」と同時に発注したが、「アースダイバー」は読めてもこちらの本は構えてしまってきょうまでかかってしまった。

今回読んでみて、20年前よりも理解できたように思った。無論、本の内容を自分の言葉で説明しろ、と言われたら多分5分の1ほどしか説明できないだろう。あとの5分の4は解った気にはなったが、結局はさらさらと指の間から砂がこぼれ落ちるように僕をすり抜けてしまった。

吉本隆明はこの本を再読して「精神(心)の考古学」だと評した。ヘーゲル的な西洋中心的社会進化論的文明・文化観の底の浅さを突き抜けて、もっと大きな括りでの太古を探る知的営みなのだ。「はじめに言葉(ロゴス)ありき」のその前の、言葉が生成されて精神も時間も空間も分節される前の、いわば夜明け前の曙光の予感を感じる「時」を心で体感して生まれたのがこの本だろう。だから、この本で使われる言葉はイメージ喚起的な言葉ばかりなのだ。元々言葉では表現しようのないこと、それこそ太古の人間の精神をそのまま継承しているかもしれないチベットの行者に弟子入りして体感しなければ理解できないことを言葉で表現しようというのだから、並の言葉使いではダメだ。

その面で中沢新一の言葉使いはすごい。なんとなく理解できる気がする。言葉を通じて体感できる気がする。





中国聖賢のことば―新約中国古典抄 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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中国哲学 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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中国的思考―儒教・仏教・老荘の世界 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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哲学以前 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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解説によれば、本書は戦前の旧制高校の学生によく読まれた本だという。60歳ぐらいの人が読めば本書が説いていることに共感できることが多いかもしれない。20歳前後の大学生で本書を一読してすぐ納得できるひとはそう多くないに違いない。かといって難解な用語を使っているのではなく、身近な題材から、わかりやすい言葉で説明しているが、内容が深い。多少哲学の知識があるひとは、形而上学的な考え方を解説しているとピンと来るだろう。「哲学以前」とは、哲学の目的は難解な思想を理解することだけではなく、人間が切り取った思考より前に存在する、「根源的な、存在そのもの」に目を向けなさい、といいたかったのだと思う。あまり哲学づいて観念的に凝り固まってしまうのもよくないが、社会に出て実務に接する前に、ものごとを深く考える思考の訓練をする期間は、やはり必要なのではないだろうか。マイナス1点は「真理思慕」は著者の思い入れが感じられるが、読まされるほうはすこし気恥ずかしく感じるので減点した。




哲学の課題―樫山欽四郎哲学論集 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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序 哲学に課せられた一つの問題
1 ヘーゲルと現代
2 キルケゴール
3 宗教との対決
4 実存と道徳
5 倫理
6 ヘーゲルの道徳論
7 歴史
8 自然について
9 哲学の課題
10 否定の論理
以上目次。

死後編纂された論文集。それぞれ興味つきない論点が示される。





哲学の教科書 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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哲学は何であって何でないのか。哲学者とはいかなる人種なのか。哲学は何の役に立つのか。こうした、知っているようで意外と分からない哲学のすがたを丁寧に説いた教科書です。デカルトやカントなどの有名な哲学者の名前も出てきますが、それらはあくまで著者の主張の例示としてであって、いわゆる哲学史や「哲学者」学の教科書とは一線を画しています。新聞のコラムなどで見かける著者のエッセイはひねくれたものが多いですが、この本ではそうした毒は抑えられ、とても誠実な語り口が貫かれています。

哲学的な問いの何たるかと、それに絡めとられることの恐ろしさが、著者自身の体験と実感に基づいた記述から生々しくつづられていますが、私も含めて、通俗的な日常を送っている多くの読者にとってそれは、理解はできても十分には共感できない代物でしょう。しかしながら、私たちの認識や日常は、自明のようでいて実は全く自明ではない無数の前提の上に成り立っていることと、そうした問題に対して無意識ながらも思考停止することで私たちは日常を送ることができるという事実は、頭の片隅で常に意識しておいて損はないはずです。(こと、死に関しては。)

哲学とは、そうした日常のあらゆる前提を徹底的に疑うことであり、それに対する普遍的な答えなり理論なりを精確に論証して、相手の実感に響く言葉で納得させることを試みる営みだそうです。こうした方法論そのものは、学問を志す者はもとより、常に現状を改革すべき実務家にも求められるものです。もちろん、哲学者でなければ、何から何まで疑う必要はありません。疑うべきものを疑うべきときに適切に疑えれば十分でしょう。


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