例えば、リアルな性教育やブタの解剖を学校の授業で行うことに対して、氏はそれを「転倒」であると非難する。どういうことか。
まず知りたいという理由(好奇心)がうまれ、それを知るほうに動く。すなわち、まず自分の中から一人一人違う問いの形を汲み上げ、それから歩み、答えに至るのが正しい筋道であり、問いの前に答えを差し出そうとするのは「転倒」ではないかというのである。
つまり、そこで問われているの!は「自分」。そう思えば、一人一人の「自分=エゴイズム」を置き去りにした思想や行動が瀰漫しているのがこの時代だ。
個のエゴイズムを無視したコスモポリタニズムや反戦運動。それは、個を無視して戦争に突入したあの時代とどこが違うというのか。
この文集の魅力は言葉のすみずみにさわやかな風(こうとしか表現できない)が吹き抜けているところだ。氏は結論を急がない。ときによっては氏は結論を(あえて)出さない。そうして、氏は軽やかでレトリカルな文体で、我々の前にささやかな問いを残してゆく。
私のとりわけのお気に入りは「引き抜く力」という短文である。「孤独だったから本を読んだのではなくて、本を読んだから孤独になったのではなかっただろうか」。氏のやさしき読書論である。
普段の生活の中で、ふと納得できないルールに縛られている自分に気付く。私にはそんなことが良くある。もしかしたら他の人にもあるかもしれない。しかし、そのルールが何なのか学校も親も教えてはくれない。分かるのは「そういうものだ」と殆どの人がそのルールを受け入れているという事実だけだ。
山本七平を読むとそれが何なのかわかるような気がする。「そういうものだ」というルールが戦前と戦後では変わってしまった。これはそれを体験している人にしか分からないことであろう。しかし、山本七平の指摘で興味深いのは、そこが表面的(可視的)には変わったかに見えて、実は無意識のレベルでは変わらず、私達を縛り付けるているというものだ。
もし、私と同じような感覚を持っている人がいて、それが何なのかを知りたければ、ぜひこの本を読んでみることをお薦めする。彼の指摘が受け入れられるにしろ、受け入れられないにしろ、自分の足元を相対的な視点で確かめることができるのではないだろうか。
また、心理学者の河合隼雄さんとの対談では、シナリオライターの感性と心理学者の感性を通して人生について語られていて、とても興味深いものでした。特に”人生は楽しみと苦しみが五十対五十でできている”という部分には大変感動し、勇気付けられました。
世界の工場としての中国、市場としての中国、やっかいな脅威としての中国など、
その一面をとらえた書籍は数多く見てきた。
しかし、本書を読み終えてまず最初に感じたのは、
「中国人を知り、仲良くやっていくヒント」を手にしたかもしれない、という事。
実際日本では、中国人留学生の目を背けたくなるような事件も発生しており、
否定的な世論に同調するのはたやすい。
そんな中で「隣人である中国人を理解できるかも?」と思わせてくれた良書、だと思う。
なにより中国への理解を深める事で、
自分たちの国、日本を外から鳥瞰できるようになると感じています。
お勧めです。