小児がんは、「親子四人の本当にどこにでもある平凡な家族」を突然襲った。生活は、絶望、悲しみ、怒り、喜び、感謝、そして無念の毎日に一変する。がんと闘いながら、どこまでも前向きに強く6歳5ヶ月足らずの短い命を生き抜いた少女と、家族の記録だ。
景子ちゃんが発病したのは3歳の時だった。腹部の神経芽細胞腫。襲いかかる病魔と、幼い命は精いっぱい闘い続ける。だが、がんは脳に転移してしまう。
保育園には可能な限り通い、抗がん剤の影響で髪が抜けて頭に手術の跡が見えても、帽子をとって走り回った。小学校へは車いすを自分で動かして行き、一人で起きれなくなってからもベットでモルヒネを飲みながら宿題をした。最後まで治る日が来ると信じて。!
周囲の愛情にも支えられ、生き抜いた景子ちゃん。家族は愛知県豊田市在住で、この本は、両親が闘病中の出来事や治療内容を書き留めた「景子ちゃんノート」をもとに、父親が書き記した。景子ちゃんが生きた「証」だ 。家族の愛や、いのち、医療のあり方・・・・そして、 「尊厳ある生き方」を問いかける。
本書で最も感動的なのは、石坂博士が、「内助の功」を退け、結婚に当初反対だった照子博士の両親に報いるためにも、彼女をアメリカにおいて一人前の研究者として成功するよう支援してゆくくだり。もちろん実力もあったからこそ、照子博士は日本女性として初めてアメリカの大学(ジョンス・ホプキンス大学)の正教授となるのである。だが、ジェラシーは万国共通で、スタッフが犯した私生活上の過ちを理由に照子博士の研究実績まで再調査せよという声が起きる。すると石坂博士は調査委員長(もちろんアメリカ人)宛てに手紙を送り、彼女の窮地を救う。この手紙は、いかにも自然科学者らしい論述に加えて、不条理を憎み、妻を愛する江戸っ子ならではのタンカであり、まさに胸がすく。
数年前に帰国し、照子博士の故郷・山形市に住む石坂博士は、現在「週に五五~五七時間」は、病床に伏せる彼女の傍にいる。この本も「もう意味のある言葉を話すことはできない」照子博士の枕元で校正したそうだ。後年二人でアレルギーの原因を究明するなど思いもよらなかった恋愛時代、20代の照子博士が石坂博士に送った手紙には、こう書いてあった。
「いつか〝石坂さんが私にとってすべてである〝と本音を吐いた事がありましたわね。これだけはアレルギーよりももっと判らない不思議な現象です。」