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和書 882814 (56)



ゴーギャン―芸術・楽園・イヴ (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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最澄と空海―日本仏教思想の誕生 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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インド思想を専門としてきた著者が日本仏教思想の誕生を画す最澄と空海に取り組んだ本。
インドの観点からみるとこの二巨人について、いろいろ語るべき点が多いと思われ、期待して読んだ。インド仏教との比較は木に竹を接ぐような印象があり、融通無碍とまではいかなくても、もっと縦横無尽に語ってほしかった。それには中国仏教の様子をもっと押さえる必要があったかもしれない。
また、この二人、特に最澄については著者が自家薬籠中の物としていない様子がうかがえ、生硬な書きぶりと感じる。空海とインド思想との違いについては、空海の独創性とともに限界性をもっと検討してほしかった(歯切れの悪さを感じました)。すべて空海の独創性の発露と賞賛する従来評価とは違う視点をもっとはっきり打ち出してこそ本書の価値が高まったのではないか???

インド―中国―日本を繋げるスタンスには大いに期待するだけに注文が多くなってしまいました。




裂ける大地 アフリカ大地溝帯の謎 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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死海文書―甦る古代ユダヤ教 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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嗜好品の文化人類学 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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 国立民族学博物館の関係者を中心につくられた嗜好品文化研究会の成果をまとめた一冊。世界各地の嗜好品が取り上げられ、分析されているとの期待から読んだが、単なる紹介・寄せ集めであり、がっかりした。嗜好品という概念そのものがあやふやなままだし、分析も甘い。各執筆者の体験が表面的に語られているだけで、興味本位で読むにしても物足りない。
アルコールやコーヒーなどの世界公認の嗜好品から、ブラジルのガラナ、イエメンのカートといったローカルな嗜好品、そしてゾウの脂やウシの胆汁というおよそ嗜好品のイメージからはかけ離れたものまで、多種多様な例が取り上げられている。そこに共通する心性は何か。あえて間口を広くしたことで、新しいものが見えてきそうな雰囲気はある。しかし踏み込めていないのである。
 残念な本であった。




視線の物語・写真の哲学 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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思想としての孤独―“視線”のパラドクス (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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 「孤独」は今一番嫌われることばのひとつかもしれない。群れること、みんなの中に埋もれること、情報をやりとりすること。こんなことが一番の関心事で、それは必ずしも若い世代だけにかぎった傾向ではないようだ。どうして「孤独」はそんなに忌避されるのだろうか?

 確かに「孤独」には、排除される、自分の場所がなくなる、自分の存在が消えさってしまうといった側面がある。しかし、それはまた自分が自分であることを確認するためには必要な状態であるし、想像力や創造力を駆使するときにも欠かせないはずだ。自分という存在を、他者によって認めてもらう受け身的な姿勢が前者だとすれば、後者は、他者に認めさせる積極的な姿勢。だとすると、他者への自己の提示のスタイルが受動的になったということなのだろうか?

  『思想としての孤独』のキイワードは「透明」と「分身」。透明人間は、どこにいても誰からも気づかれない存在、そして分身は自分がいるはずの場を占有するもう一人の「私」、あるいは「他者」である。

 透明人間には誰もが一度はなってみたいと思う。自分の存在を知られずに他人たちを眺めることができる。覗きや盗聴に対する誘惑。けれども「透明」はまた、その場にはいてもけっして参加することができないし、見ることはできても見られることのない存在でしかない。それに気づいたときの「孤独」は、他人から見られることで感じる不安や煩わしさと裏腹である。

  「分身」は、自分のコピー、あるいは代役である。これもまた、自分がもう一人いたらどんなにいいかと空想するものだが、同時に、自分の場所や自身自体を奪いかねない存在になる。かけがえのないはずの「私」。「分身」はそれを代行する。そう考えたとき果たして「分身」は便利な相手か、あるいは恐怖の対象だろうか。

  この本はこのような軸をもうけて、主に文学作品を題材にしながら考えている。読みこなすにはかなりの文学的な知識が必要だが、しかし、その例を日常的なものに置き換えることは容易だ。というよりは、ぼくは読みながら、勝手に一人歩きをはじめ る自分の想像力をおさえることができないほどだった。読む私と、勝手に想像の世界 をうろつきはじめる私。まるで、透明人間のように、あるいは分身のように。




思想史のなかの臨床心理学―心を囲い込む近代 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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日本で初めて書かれた、きわめて価値の高い本だ。著者は哲学と臨床心理学の両方を修めた、高度の専門知識をもつ学者である。フロイト、ユング、ラカンなど、精神分析の本は多いが、実際に臨床的にどのような位置にあるのかは素人にはよく分らない。狭義の精神病は精神科医の担当領域だが、ノイローゼ、拒食症、登校拒否など広義の「心の病」を治療する「臨床心理学」という新分野が、現代日本で急速にその地位と影響力を確立しつつある。

臨床心理士の多くは精神分析の手法に依拠してカウンセリングや治療を行うが、その仕事は、サラリーマンの悩みの相談相手となる「バーのマダム」、新興宗教家による「心の相談」、拝み屋、占い師、霊能者などによる民間療法、さらには整体などの代替医療とも重複する。そこには、治療効果への疑問や、何か宗教めいた「怪しい」雰囲気がないわけではない。本書はこの疑問に真正面から取り組む。

著者は、精神分析が「発見した」無意識という領域を、ユダヤ=キリスト教に由来する西洋思想の正嫡の伝統として再解釈する。19世紀の実証主義と現象学における「意識」への還元が、実は精神分析と表裏一体のものであること、精神分析の「科学」としての自負の根拠などを見事に解き明かす。そして、その上で、精神分析すなわち臨床心理学は、人類の歴史において宗教が担ってきた重い課題を引き受けていることを、率直に認める。我々を深い反省へ誘う思索の書だ。




下着の誕生―ヴィクトリア朝の社会史 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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 結局、何を言いたいのか分からない、というのが率直な読後感。

 本書の目的はまさにfoundationとしての女性下着からその上にまとう衣服、さらにはその
時代の文化、風俗を描き出すことであったはず。しかし、その目的が果たされたとは
言いがたい、それどころか、そもそもそこを目指して書いていたのかすら疑問。
 ヴィクトリア朝における女性周辺の史料を集めてはみたものの、そこから何を明らかに
したいのか、いかなるストーリーを読み取りたいのか、そうした点がはっきりと見えないが
ために、ただのサンプルの羅列に留まって、具体的なコメントにすら苦慮してしまう。
 そのわりに、それって自明のことなのか、と首を傾げてしまうような仮説がさらりと文中に
書き込まれている状態。
 それこそ雑誌のルポルタージュなら辛うじてありかもしれないが、論文としてはもはや体を
なしていない、と言わざるを得ない。


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