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和書 882814 (58)



自己を失った少年たち―自己確認型犯罪を読む (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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 知識社会学の方法を用いて、心理主義的言説がどのように要請・構築され、誰が誰のためにそれを用い、どのような効果をもたらすかを述べた著書。心理主義とは、著者によればマズローの欲求段階説を嚆矢とし、自己心理学による人格コントロールや「EQ」、感情の知性のコントロールおよび向上を訴える一派など、自らの心をコントロールすることで自己実現を叶えることができる、とする潮流のことで、それぞれの流派の要点を端的にまとめた上で「人格崇拝」「マクドナルド化」という二つのキーワードを用い、心理主義のもつ問題性を浮き彫りにする。それは、人間の人格は何よりも尊重されなければいけない、と教えられながら、その一方で、個々人の感情はどんな時でもコントロールできなければならない、とする教えも学校生活、就職活動時や就業時に絶えず内面化され、それぞれの要求レベルが高くなりつづけるに従ってその矛盾の度合いもますます高くなり、常に互いにラベリングをし続ける上に二つの矛盾する規範を過剰に内面化し続けた末、突発的にキレる人が増えてきた、ということだ。

 ところで今、2008年の時点でこの本を読んでいて特に印象付けられるのは、第五章「フレキシブルな社会の編成」第六章「合理性の非合理性」で語られている事柄だ。第五章で語られているのは、派遣労働力の導入において心理主義的言説が、経営者・正社員・派遣労働者、それぞれの立場の人々にヘゲモニーとして、絶対命令的ではなく説得的に、反論しがたい意見として果たしている役割で、第六章の中には犯罪報道を補完する形で犯罪心理学者や精神科医の言説が配置され、個々の犯罪者の行動を社会的・経済的・制度的境遇を考慮外、あるいは単純化かつ所与のものとした上で、本人の「心の闇」や家族環境の問題の枠へ収めていく様子が描かれている。上記の二つの例は前半の分析と合わせてとても強い説得性を持っている。心理主義が孕むダブルバインド。本書は2000年に発行されたものだが、本書で解説されている事柄・仕組みはたった今も反復され、また増幅されている。たとえば今年出版された湯浅誠「反貧困」(岩波新書)のなかで指摘されている、貧困層を見舞う「五重の排除」を正当化する言辞が、本書で問題としている心理主義によって強化されていると読むことも出来る。現代社会の基礎知識社会学の1冊だと思う。




自己愛の構造―「他者」を失った若者たち (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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著者のコフートに対する、尊敬の念が、とても良く伝わってくる本です。また、自己愛という、ややこしい概念をも、意外と易しく説き明かしてくれました。
私は今まで、例えば何のくったくもなしに、「自分の話しかしない」ような人間について、巨大な?を感じていました。
果ては「わざと?嫌がらせ?」くらいにまで考えてしまうくらい、理解できなかったのです。
それがやっと、理解できました。
つまり、そういう人は、自己愛の強い人。
さらに、自己愛に傷つきがある人。

自己愛云々というのは、乳幼児期の親との関係の中で、確立されてしまうらしく、そういう人は、大人になっても、満たされない自己愛を抱え、それを満たそうとしている、とのことです。
そして、健全に自己愛が満たされ、健全に情緒的発育が行われないと、平たく言って、「自分しか認識できない」ような大人になる・・・・。
あぁ!つまり彼等は、極端な話「自分のことしか、わからない」のね?
だから、唯一わかる自分のことしか話せないわけね?というようなことに、自然と理解を深めさせてくれる、これは優れた本です!
ただ、著者もコフートも天才&秀才ですので、意外と易しくとは言え、いかんせん、難解なところもあり、私の場合、読後、かなり疲労しました。
それから、コフートの人生というのも、大変、興味深く、ご自身が「自己愛人格障害」との認識を持っての、自己愛研究だったようです。
結局、優れた人物と、そうでない人物の明暗を分けるのは、このような「自己認識」の有る無しなのかな〜、と、妙に考えさせられるものがありました。

恐らく、前出の「自分の話しかしない」ようなタイプの人間というのは、自分を「自分の話しかしない人間」とは、考えもしないでしょうから・・。

理解に苦しむ部下を持つ、悩める管理職の方には、お奨めしたいです。






住宅道楽―自分の家は自分で建てる (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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早稲田大学教授です。10年前の本です。
もっと知を投げ捨てた芸術家肌の人かと持っていましたが、さすがに教授だけあって論理派でした。

消費社会における多くの住宅が、人間の幸福に資していないのではないかという疑問、逆に自由を奪い疎外感を増している原因の一つなのではないか。この原因を住宅価格の異常な高価格に求めています。ローンにからめとられる大衆。
そして、そうした消費されるイメージが先行する商品としての住宅が年間100万戸も供給され、現実が記号化され、内だけを興味の対象とする現代の病理についても言及しています。
さらに、TV・自動車・携帯電話の普及が空間を消し、個別性を消し、人間交流の希薄さを増大させ、殺伐とした社会を作っているのではないかという指摘。

そこから自由になるための知的セルフビルド。つまり、部材価格や手間賃、構造についてもっと知り、自由の表現である住宅設計(製図ではない)を志すべきだという主張になっているようです。

どうやってどういう物を買うかだけにしか興味の無い人=現代消費生活に疑問の無い人には、無用の本でしょう。
そうではなく、自分で考え、手間を惜しまず行動し、結果責任を負える人間にとっては、貴重な示唆に富む本だと思います。




儒教と近代国家 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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自由学問都市大坂―懐徳堂と日本的理性の誕生 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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縄文論争 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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この本の最大の見所はは、「1000年の間3回も縄文人は稲作農耕を選ぶチャンスがあったのに、なぜ2回は見過ごしたのか」というところだろう。現代の考古学では、昔の狩猟に頼って栽培の技術は持っていなかった「遅れた」時代という縄文時代観は払拭されつつある。環境要因、韓半島の情勢、そして縄文人の中の主体的要因。幾つか重なって縄文人は弥生人になっていったのである。土偶の持つ意味、米と他の食物はどう違うのか、世界の中の縄文文化等、若い新進の考古学者が描く最新の縄文時代観である。




人体部品ビジネス―「臓器」商品化時代の現実 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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臓器移植の倫理的問題をめぐっては、法学者、哲学者、医学者、生物学者、患者団体、ドナーたちが、それぞれの立場、識見から、意見を表明している。それらは確かに傾聴に値するが、ただひとつ抜けていた視点がある。それは、臓器売買の当事者たちの視点である☆筆者は臓器売買のメッカであるフィリピンとインドで、ドナー、レシピエント、コーディネイター、ドクターから聞き取り調査を行い、ありのままの現実を提示している☆日本とまったく社会構造の異なる国で、日本と同じ倫理観を適用することは不適当であり、臓器売買は、強いて言えばインドやフィリピンの社会構造に原因があるのだと筆者は言う☆臓器移植は論理的には人肉食である。人肉食は有史以前から世界中で行われてきたが、近代文明の到来とともに姿を消した。しかし、それは形を変えて臓器移植(血液製剤や培養組織利用を含む)という形で復活しつつある☆人間の尊厳とは人体の尊厳とイコールなのか、人体とはモノなのか、考えるべき点は多い。著者が性急に結論を出していない点が好感が持てるが、工業における「環境コスト」に相当する、移植医療の「道徳コスト」とは具体的に何なのかを解説してもらいたかった。




スサノオ神話でよむ日本人―臨床神話学のこころみ (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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本書は「臨床神話学」の試みだそうだが、要するにユングやキャンベルがやった様な、神話から人間心理の深層を照らし出すと云う手法を自分達でもやってみようと云うこと。そこで取り上げられているのが破壊的で無邪気なてんかん神としての「スサノオ」なのだが、私などは、本書以前にこの神を体系的に精神分析に持ち込もうと云う試みが殆ど無かったことの方が不思議に思える。破壊による浄化、怒りによる救済と云ったテーマは、我々の日常のあちこちで極めて頻繁に見られるのに、研究室を出てこうしたありふれた事象の分析を行おうとする分析家が少ないのはどうしてなのだろう。 D.H.ロレンスの『黙示録論』や渡辺哲夫の『死と狂気』等と読み比べてみるのも面白いだろうが、やはりこの分野はまだメジャーとは言い難いのが残念である。

筆者は、具体的な事例として宮澤賢治や斉藤茂吉、南方熊楠を挙げているが、もっと直接的に解り易い例は幾らでもある。一番はっきりしているのが日本の怪獣映画。疎外された者達の抱える闇に焦点を当てた香川滋の原作や太古の力強い情動を掘り起こす伊福部昭の音楽によって描き出された、その後の怪獣映画群のカラーを決定付けた『ゴジラ』は正に現代の神話。ゴジラとは、それ自体では悪ではないが、比類無き破壊を齎す現代の原罪の象徴、逐われるべきかなしき荒ぶる神でなくて何であろう(「ゴジラ」の英語表記は"「God」zilla"である)。『大魔神』なども、そのテーマだけでなく見た目から言っても、再生されたスサノオと呼ぶに相応しいのではないだろうか。こうした具体例から見てゆけば、このテーマがもっともっと敷衍出来るものであることは明らか。「スサノオ」は可成り利用価値のあるイメージだと思うので、今後もっと一般化した論考が現れることを期待する。




性と呪殺の密教―怪僧ドルジェタクの闇と光 (講談社選書メチエ)
販売元: 講談社

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ドルジェタクって誰?というのが最初の印象ではないか。
日本ではほとんど知られていない人物である。
チベット仏教によほど関心のある人でないと聞いたこともない人名だろう。

ドルジェタクの活躍した時代のチベットはまさに乱世である。
各地で有力者が割拠する時代。
その力の象徴の一つが呪術である。
本書でも多く触れられ、私には最後まで今ひとつ得心しがたい部分もあったが、呪殺の嵐が吹き荒れていた時代であった。呪殺が現実の話として語られる。呪術の腕前が金を生み、生死を分ける。現実とは思えない社会である。

しかも、その呪力の源は性的エネルギーである。
古今東西、多くの宗教が性の問題を封印したり回避してきた中、後期密教は性を積極的に取り入れていった。チベットにおける密教受容の初期はまさに性と暴力の様相を色濃く持っていた。我々の持つ仏教のイメージから遙かに離れた存在である。本書にもおどろおどろしい評言が各所に見られる。おそらく、これでもかなり表現を薄めたものの想像される。原書ではどこまでグロテスクな表現に満ちていたのであろうか。

そんな当時のチベットで絶大な呪力を誇ったのがこのドルジェタクである。
ドルジェタクが他の行者たちと異なる点はインドにまで修行に行った顕密両面で最高峰の域に達していたと言うことである。
チベットが密教を自らのものとしていく過渡期に現れた偉人であろう。後世からは破戒僧ととらえられかねない破天荒な人物である。性的・呪術的な側面を次第に背景へと後退させていくチベット密教史の中でドルジェタクが依然高い評価を維持していると言うことはチベット仏教、ひいては宗教における光と闇、実践と理論を考えていく上で興味深い材料となるであろう。



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