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和書 467254 (381)



漱石の師マードック先生 (講談社学術文庫 (651))
販売元: 講談社

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テキストと実存―ランボー マラルメ サルトル 中原と小林 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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夏目漱石―非西洋の苦闘 (講談社学術文庫 (995))
販売元: 講談社

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ファウスト―ヨーロッパ的人間の原型 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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この本は、ファウストを読み解くためのかっこうの指南書となるでしょう。
テーマは、総合普遍的な「愛」。著者はドイツロマン派古典文学の第一人者です。
これからゲーテの作品に触れてみようという方には、まさにもってこいの一冊です。
筆力のある文面からは透徹とした哲学すら感じ取れます。
特に若い人にお薦めです。




マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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この本はマルクス主義の本でもなければ、マルクスの考えを好意的に解釈しようという試論でもない。あくまでマルクスの「可能性」を検討したものであって、柄谷はマルクスのいまだ「思惟されていない」部分を読み取り、時にはマルクスと決別しさえする。
まず柄谷は『資本論』の価値形態論から入るが、古典派経済学の労働価値説との違いを強調する。マルクスの価値形態において、価値とは複数の商品の関係において表れてくるものである。一方で、スミス、リカード等の労働価値説は商品に内在する価値を認め、それは労働時間に他ならないというのである。そしてマルクスも同じく、価値形態の必然的帰結として「拡大された価値形態」=「貨幣形態」を導く。しかし柄谷はここで「転倒」が生じていると指摘する。マルクスの貨幣形態は、現実に貨幣が使われているからそういうのであって、論理的帰結ではないというのである。そもそも「内在する価値」を想定すること自体が危険だというのだ。
これは、古典派経済学批判、貨幣形態論批判であると同時に、「本質」の存在を当然視するヘーゲル哲学、形而上学批判でもある。

続いて柄谷は「剰余価値論の検討」「マルクスのテクスト一般の検討」に移るが、その態度は一貫している。剰余価値については一部不信な点もあるが、柄谷のオリジナリティは充分に見てとれ、同じくマルクスについて言及している『探究(1)』の布石として読むことも可能である。





宮沢賢治とドイツ文学―「心象スケッチ」の源 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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与謝蕪村 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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ランボオからサルトルへ―フランス象徴主義の問題 (講談社学術文庫)
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露伴の俳話 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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漱石と三人の読者
販売元: 講談社

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 漱石が「顔のはっきり見える読者」、「何となく顔の見える存在としての読者」、「顔のないのっぺりとした存在としての読者」という「三人の読者」を区別し、各々に異なる読みが可能となるように書いたという仮定の下、その作品群を読む。「顔のはっきり見える読者」が同時代の文壇などの誰彼だったというのはよいとして、後二者の区別については『彼岸過迄』の分析が分かり易い(p196〜)。
 ま、それはそれでソコソコ面白かったのだけれど、実は本書で一番興味をそそられたのは、引用された大杉重男の議論。漱石は同時代の中流市民という閉じた空間しか意識せずに書いたが、たまたま現在の日本人の大部分が「中流意識」を持つ均質な存在となったがために漱石が意識していた読者層と重なり、彼を国民作家の地位に押し上げる結果となった、というもの(p42)。
 著者は大杉の議論の説得性を認めつつ、「漱石はなぜ現在も読まれうるのか」と問う(p49)。著者の用いる知識人・大衆・他者などの概念と「三人の読者」の関係付けにやや曖昧さが残る印象もあるが、私なりに要約すれば、それは漱石が「三人目の読者」の視線を作中に取り込み得たがゆえに、この視線に照らされて当時の知識階層(→現代の新中間大衆?)の相貌がくっきりと浮かび上がるからだ、と(p230)。
 しかし、だとすれば「中流幻想の崩壊」が囁かれる現在、国民作家・漱石の神話もまた安泰ではないだろう。最近、本田透の『なぜケータイ小説は売れるのか』を読んだせいか、ますますそう思う。漱石が三人目の読者を「女」という形式で作中に導入し得たにしても、それを主人公とはできなかった。しかし今や、アウトカーストだった「女」たちこそが自ら口を開き始めている。著者にもその予感はあるようだが(p19)、「それにもかかわらず、なぜ」と始まる直後の一文によって、残念ながら問題は抑圧・隠蔽されてしまったようだ(p20)。


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