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和書 467260 (37)



本朝二十不孝 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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西鶴文反古 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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曽根崎心中・冥途の飛脚 他五篇 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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「曽根崎心中」は実際の事件と内容を変えて、九平次という悪者を設定して徳兵衛を抜き差しならない状況に追い込みます。
天満屋でお初が徳兵衛の死の決意を確認し、徳兵衛がお初の足首を持ってのどを切る仕草をする場面は圧巻です。

そして何よりすばらしいのは曽根崎道行の文。
「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足ごとに消えてゆく、夢の夢こそあわれなり。あれ数ふれば暁の、七つのときが六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め・・」と続く七五調の道行き文は読者を主人公と一緒に曽根崎の森へと誘います。
元は普通の心中事件ですが、この事件を聞いた近松門左衛門は、観客が喜ぶような心中物語に仕立てます。涙を流しながら人形浄瑠璃を町人達は見たことでしょう。
浄瑠璃作家近松門左衛門の腕が冴え渡っています。




玉勝間〈上〉 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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新訂 新訓・万葉集〈上〉 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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竹取物語 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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かぐや姫に求婚する五人の貴公子は、家具や姫から到底できない無理難題を出されて散々な目に合います。
その中の一人石上麻呂中納言はかぐや姫から出された課題の「ツバメの子安貝」をとろうとして何かをつかみますが、その拍子に吊り篭から落ちて腰をしたたかに打ちます。意識朦朧とする中で、つかんだ手のひらを開けてみたら、なんと!ツバメの古糞だった・・・・。
おもしろくて、少し悲し。あとは読んでみましょう。




浮世床 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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柿本人麻呂論 (岩波現代文庫)
販売元: 岩波書店

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「天の海に雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ」という句がありますが、人麻呂って、プロの仕事ですよね。

これだけ綺麗な文言ばかりを集め、一つの句を構成するという腕前と言い、また、彼が作ったと言われ、日本人に長くテキスト代わりに親しまれてきた「いろは歌」は、古代朝鮮語で読むと「女たちの着物の裾は血まみれになった・・・」とか何とか言う、残酷な朝鮮古来からの民謡か歌詞になるという話も併せ、人麻呂と言う人は、驚くべき言の葉の使い手だったんですね。
改めて、相当なテダレであったと認識させられました。

句に関しては、松陰吉田寅次郎のものも秀逸だと思っておりましたが、それとは違う意味で、本当のプロの凄さを見せつけられたような気がしました。

ただ、昔の句は、字数的によくわからないところがあるのですが、「天の海に・・・」の「に」はいらないんではないでしょうか?
それに、「星の林」が前の方がいいような・・・。
私なら、「天の海 星の林に 月の船 雲の波間に 榜ぎ隠れ見ゆ」としますが如何なものでしょうか?(・・・無学陳謝(笑)。)
あるいは、普通そうするところを、人麻呂は敢えてそうしなかったところに、何か凡人にはわからない仕掛けがあるのでしょうか?
字余り現象という点は、まあ、理解しておりますが、それでも「天の海に」の「に」はいらないんじゃないでしょうか?
現代の句と違い、松尾芭蕉以前の句、特に古代は、切り方もかなりアバウトな感じがしますから、字余りでも、それほど気にすることはなかったのでしょうか?
あるいは、海と書いて、「う」とか、違う読み方をするとか・・・?





日本古代文学史 (岩波現代文庫)
販売元: 岩波書店

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 題名からは、古代文学通史のようですが、何もかもが概論的に
箇条書きにされているのではなく、歌を生み出す時々の日本人の
心性に対する作者の洞察と想いがよく伝わる名著です。

 一通り斜め読みしようかと思って手にしたのですが、そういう
読み方では作者に失礼だとわかりじっくり読みました。万葉集や
古今和歌集を手に取ってみようという気になりました。




西遊記の秘密―タオと煉丹術のシンボリズム (岩波現代文庫)
販売元: 岩波書店

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西遊記という作品は実は元々は小説ではない。
中国の民衆の間で何度も何度も時代を経て上演された戯曲という形を経て、小説の形に編纂されたものだ。
故に事実上、原作者(作者)というものは存在しない。

観客の反応を見ながら、その都度こまかな変遷をへて作られる戯曲はある意味民衆に育てられた文学といえよう。

また、西遊記は仏教の経典を天竺まで求めて旅する話であるため仏教色が強いと思われるかもしれないが、その実、中国の民衆宗教である道教を色濃く反映したものである。
著書は「西遊記」という作品が小説という文章の形に成されるまでに育みその内部に散りばめられた道教とシンボリズム――まるで謎解きのように絡みこまれた象徴的な道教思想を解きほぐしていく。


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