ある程度の了解は必要と思います。その意味でマニアックと思う。
典型的には、感覚や概念がテーマの2章についてそう感じます。
全般的に言って私には半分ぐらいしか理解できませんでしたが、
理解できた範囲内では面白かったです。
私にとって良かったのは3章と4章。
3章は、ウィトゲンシュタインが青色本で「ハンパ仕事をする言葉」
と言った「意味」がテーマです。要するに、補助的で脈絡依存的な
独特の働きをする言葉に対して、脈絡から切り離して汎用的な形の
疑問文「それは何か」という問いを立てることで見当はずれの方向に
行ってしまうという、哲学の典型的パターンが見出せる言葉です。
この論文は多くの哲学者のうかつな単純化を鋭く批判しています。
4章は、ソクラテス以来?あらゆる言いがかりが付けられてきた
「知識」という言葉がテーマです。その機能を整理し、知識の主張や
知識への疑いの主張の成立条件について、「他人の心」の場合の
特殊性を合わせて分析しています。
何事にも「本当の意味で知っているのか」と言いたがる類いの哲学者は、
言葉使いに鈍感過ぎるのだと私は思ってますが、そういうのに
だまされないためにもこの論文は役に立つでしょう。
7章(真理)や9章(できる)も同様の意味で面白い部分がありますが、
他の人の学説をたたき台にする論述の進め方に少し乗りにくかった。
8章も、問題の立て方や切りかたなど著者のセンスはすばらしいと
思いますが、私の能力ではなかなか最後まではついていけない。
主著作の「言語と行為」もそうですが。
ちなみに、10章は「言語と行為」の最高のダイジェストです。
一番難しかったのは、6章(How to Talk)です。
言葉と世界の接点みたいな、とても重要なテーマを扱っているのは
分かるのですが。例えば(a)「ミケはネコである」で強調が「ミケ」に
ある場合、(b)強調が「ネコ」にある場合、(c)「ミケがネコである」
以上(a)(b)(c)の根本的な違いとは?みたいな話らしい。
何とか理解しようとしたのですが結局あきらめました。
やはり英語にかなり強いということも必要かしら。
若いころの論文の2章と対照的に、11章(「ふりをする」の分析)は、
オースティンの本領発揮の面白さです。
結局の所私はこの本の内容は断片的にしか理解してませんが、
理解した部分だけでも読む価値はあったと思っています。
内容は、河本さんの本に少しでも目を通したことのある人なら、何となく分かっていることです。
けれど、よくまあ、ここまできれいにまとめ上げたよなあと、感心します。
ホント、きれいで分かりやすい。
きれい過ぎて、ちょっと不安になるぐらいです。
しかし、私はこれを読んでもまだイメージを掴みきれずにいます。
それは、オートポイエーシスがまだ理論として確立していないためでもあると思います。
例えば、著者は生命、意識、社会を全てオートポイエーシスで説明可能とみていますが、大庭健は社会を自己組織性とし、オートポイエーシスであるとまでは言いません。
でも、それはないものねだりかな。
本書がイメージを掴む助けになってくれたことは確かです。