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和書 499786 (386)



地域学のすすめ―考古学からの提言 (岩波新書 新赤版 (793))
販売元: 岩波書店

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 著者が各地で行った講演の内容を集めたもの。いわゆる地域学において考古学はどのように役立つかというのが一応のテーマではあるが、それぞれの文章は短く、掘り下げが不足している感が否めない。またそれぞれの文章の間の関連性も薄い。




中世に生きる女たち (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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 本書は「家」の女性に焦点を当てて書かれている。「家」に包含される妻のあり方を検討なしに中世を論じることはできない。しかし、中世では結婚をして夫婦で「家」を形成できる人は少なかった。中世に生きた女性は、「家」の妻だけではないく、尼になって僧籍に入る女と遊女や白拍子など芸能にたずさわる女と三分割される、と著者は考えている。北条政子、日野富子他、能狂言説話に現れた妻たちを取りあげ、母性・家政・性愛をめぐって縦横に展開される数々のエピソードが興味深い。




中世倭人伝 (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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この本で中心となる視点はマージナル・マン(境界人)である。
現代では中国・北朝鮮・韓国・日本とはっきりと国家によって仕切られた地域。
国家の境界は海の上にも引かれている。しかし、この書の舞台となる中世はそもそも国家という輪郭自体がはっきりしなかった時代。陸地ですら境界がはっきりしない当時、国家権力に服属しない海の民達が国家を意識して行動したか・・・もちろん、意識したわけがない。

朝鮮南部を中心とした地域で活躍したマージナル・マンは倭と総称された。
今では高等学校世界史の教科書でも後期和冦は王直を初めとする中国人が中心であったと記述している。ちょっと歴史をかじった人ならば和=日本人という考え方はしないであろう。
倭とは朝鮮・日本という中世国家の端境に生きる人々の総称であり、国家に属さない自由な海洋人達である。時には漁師、時には農民、時には貿易商、またある時は海賊とその場その場に応じた姿を見せる。

彼らは国家との対応に置いても臨機応変。そのような国家と倭との接点の一つが三浦である。そこでは統制に置こうとする朝鮮王朝、倭の背後にあって影響力の拡大を図る対馬といった政治権力の角逐の場であると同時に倭の自由な海洋活動の一拠点でもあった。三浦の盛衰は倭の興亡とも軌を一にしている感がある。
倭が三浦を失った頃、南方海上ではポルトガルが勢力を拡大しつつあった。日本では戦国時代もいよいよ終わろうとし、大陸では清が着々と勢力を伸ばしていた。
倭とは中世の申し子であった。中世から近世へと歴史が動く中、倭の活動は少しずつ衰退していくことになる。

尚、江戸時代の日本と朝鮮王朝との関係では『倭館―鎖国時代の日本人町』(田代和生著)が参考になる。倭館は三浦の後継者と言えなくもない存在であるが、両者を比較すると中世と近世との違いがよくわかる。




都市と日本人―「カミサマ」を旅する― (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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日本の生活空間を専門とする著者の多年にわたる都市研究のエッセンスを知ろうと思って読み始めた。しかし、そのような読み方をすると読みづらい本だ。
本書は、日本のさまざまな都市とその生活文化、そして「カミサマ」の位置づけを探索する旅エッセイ風の構成になっている。その一つ一つも歴史、文学の教養が詰まった重厚なものだ。
結局、都市論として著者が言いたいことは何だったのか。答えは”むすび「山見の聖軸」を考える”の章にある。カミサマとは音楽、舞踏、演劇、スポーツ、買物、食事などを楽しむ所、つまり都市の都心である。そして都市には都心というカミサマと生産のためのムラと生活のためのムラの三つの生活空間が必要なのだという。
はじめとっつき難かったけれど、都市の構造について考えることのできる良い本。




奈良の寺 ― 世界遺産を歩く (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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お堅い奈文研が独立行政法人化の波をかぶって一般読者を意識し出したのはいいこと。しかしその出来はというと、個々の知識・知見の断片的蒐集にとどまっており、各担当者に原稿を割り振り、単にこれを束ねてホッチキス止めしたのとどこが違うの?と聞きたくなる。

副題が「歩く」となっているが、読者という同行者がいるのに、視野に入っているのだろうか? 副題に一般受けする言葉をつらねているが、単なる受け狙いなのではないか。どうも実態がそぐわっていないように見える。
たとえばふるくは和辻哲郎『古寺巡礼』、新しいところでは『法隆寺の謎を解く』(ちくま書房)がある。そこではまず、読者と著者が一緒になって境内を、回廊を、建物内部を歩き回り、臨場感がありました。
この点、この本では副題が「〜を歩」くとなっているのに、臨場感などまるで伝わらない。執筆担当者の研究こぼれ話、とでもいった方が実態に近いだろう。これで奈良の寺歩きが愉しくなるというのは無理な話…。

それでもそこそこ売れているようだ。奈文研と岩波という権威のの組み合わせからくる安心感、信用なのだろう。一般読者も権威に弱いから、買ってみて面白くなくても、それは自業自得かな(反省)。




南京事件 (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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南京事件に関する現在に至るまでの論争には大きく二つあると思う。第一に、事件の性質からか研究者が少ない。第二に研究者は少ないが否定派と肯定派との議論は、なぜか個人のイデオロギーとも絡んで、もはやお互いに異端審判の様相を呈する感であり、著作は多く、両者はややもすると罵倒合戦→絶交という状況に至らざるをえないような状況で、まともな建設的議論は望み難い状況あること(もちろん、真摯に検証に取り組む研究者、著作もある)。
本件は過去の事実の検証という歴史学の側面だけではなく、今なお国際関係上の課題として取り上げられる現代的な問題である(中国は虐殺記念館を世界遺産に申請中と聞く)以上、通常の歴史問題とは異なり、やはり刑事事件の証拠調べに採用される厳格な証明が要請されるべきと考える。
更に歴史学者だけではなく多くの分野の専門家も巻き込んだ多角的な検討も必要であると思う。補給が十分でない戦場という異常状態における人間の心理状況を検討する心理学的観点、また、貴重な敵の軍事機密を握る敵兵(特に将校クラス)を、後方に移送して取り調べることもなく、むざむざ殺してしまうようなことがあるのかという点で軍事学的観点、更に、人権委員会など多数の外国人、ジャーナリストが存在し、当時全世界が注目していた首都南京で、日本軍が組織的殺害等を計画・実行する動機があるのか?あるとすればそれはいかなる動機か?という意味で当時の日本軍首脳の意図の把握という点で政治学的観点、また士官クラスの戦時国際法への理解度という観点、10万人以上殺した場合の死体処理・死体が発するという激しい悪臭の問題はどのように解決・隠ぺいされ得たのか、という意味で医学的観点等・・・
これらを加味した厳格な証明が行われるべきで、そろそろ本件の検討は新たなアプローチから検討すべき段階にきているのではないか。本件を代表する本書籍の感想の場を借りて、小生が抱く南京事件研究への一意見とさせていただく。
少なくとも証言はあるとしても、それも弁証法的な反対尋問に晒されるべきものであろうが、それは今となっては不可能な場合も多いであろう。ただ、少なくとも多角的観点からの検討は怠るべきではない。
それから、以下は中国人とビジネス上の交流を持つもののはしくれの偏見として、一言加えて置きたい。日本には良くも悪くも「詐」の文化がない。中国では孫子が「兵は詭道なり」といっているし、西洋でも「ポーカーフェイス」等とゲーム感覚で「騙し」を楽しむ部分がある。サッカーでもしかりであり、日本選手が最も不得意とする分野であることも多くのスポーツライター等が指摘する通りであろう。そこで、本書でも多く引用される「省史」他、中国共産党のお墨付きをもらった証言をそのまま鵜呑みにするなんてことは、お人好しもいい加減にした方がよい。




日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界 (岩波新書 新赤版 (958))
販売元: 岩波書店

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日露戦争前後の日本と諸外国の状況を、戦争を核として生じる様々なイデオロギーの浮き沈みを中心に(事象が次の事象を生む“連鎖”の指摘を別とすれば)淡々と語った叙事文に過ぎないのだが。「何とか史観」などという難しい考え抜きで、(中学・高校生から大人向け)読み物として実に面白い。“面白い”がシリアスな内容に不似合いならば興味深いと言おうか。

 先ず、綿密で繊細な調査によって得られた複数のジャンルにわたるエピソードの数々、特に全編に散らされた民間レベルの話題によって(私)はその場に居合わせた気にさせられる。また、それらの事象が仲介となって、一見無縁な事柄どうしが(連鎖?を伴った)関連性を持ち始める面白さ。その最たるものは1901年に作られた或る高校寮歌の血を沸かすような旋律が、タイトル、目的や歌詞を度々変えながら何十年も(恐らく現在まで)歌い継がれていくというエピソード(91頁、182頁)だろう。

 本書は、内容を咀嚼し(時に内省を促す)という通常の読書パターンで納まらず、読者を継続的な咀嚼段階へと誘惑する点で、通常の歴史解説書にない動的な作用をもたらし、多層的な味わいを持つ稀有な著作と見た。その咀嚼段階とは、本書に印された“連鎖”の語句をヒントに、本書中の諸所に隠れた“連鎖”の事例を読者自身が見つけ出し、連鎖系統マップを作成しつつ比較検討して味わう作業のことです。その実践の後には、本書から離れて(私)の周辺に“連鎖的”事例を見つけ出す習慣、そして戦争や平和の意味を自分の言葉で考える力が身に付きそうだ。私たち日本人の心的ルーツを解き明すための旅で?手掛かりとすべき最も重要なテキストと位置付けたい。

 最終章で突如として示される話の転換、内容の変節は、時として、変化の少ない平和よりも血のたぎりを呼ぶ戦争に充実を覚えかねない我々の特質に対する著者の不甲斐なさの表れ又は焦りと受け取りました。




日中アヘン戦争 (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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著者がいいたいことは「日本は太平洋戦争において占領地と植民地で大量のアヘンを生産・販売・使用し、そのアヘン政策は国策として計画的に展開された大規模な国家犯罪である」ということだろう。しかし他にも著者は、太平洋戦争が始まって日本がシンガポールを占領したとき、イギリス植民地政府がインド・イランから生アヘンを輸入して市内の精製工場(従業員44人)と市外の包装工場(従業員272人)で大規模にアヘン煙膏を精製していたことや、ジャワ島のバタビアを占領したときはオランダ植民地政府の設立した大規模アヘン工場(従業員439人)を接収、66万両という大量の生アヘンを押収したと書いている。

中国は当時軍閥政府によってバラバラになっていて統一された国家の体をなしていなかった。だから山西軍閥の閻錫山は大同でアヘン通過税を取り、アヘン専売制度を実施して財政収入を確保したし、国民政府支配地域内で密造されたアヘンの一部が日本軍の占領地域に流出し、日本側の政策を狂わせたと著者は書いている。国民政府が公的には禁煙を表明しても一方では大量のアヘン密造を容認していたし、中国共産党も人民を脅迫してアヘンを栽培させた新聞報道を紹介している。この本の著者自身の記述だけでも日本だけがやっていたわけではないことがわかる。当時の時代性を考慮して読まないと判断を誤まる。

この本は1937年の盧溝橋事件から日本軍の中国大陸への侵攻を時間経過とともに説明してあるのだが、わかりやすくまとまっていたのは意外な収穫だった。






日本が「神の国」だった時代―国民学校の教科書をよむ (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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国家権力がやろうとすればこれくらいのこと(このような教育)はどこの国でも出来ると思っております。他の方も書かれていますが、この偏向教育自体はそれほど珍しいとも思っておりません。やはり個人的にずっと昔からひっかかっていたのは「何故神の子」路線を突っ走ったのかということが疑問で残っております。精神力のみ、献身のみ・・・・戦争に勝とうという動機が引き金となってこのような教育がなされたと思うのですが、「潔く国家のために死になさい」という教育は全く勝つ教育になっていなかったということです。初めから負けるつもりであったのではと・・・・。どの視点で評価するかによって様々な点数がつくと思います。この著者の視点も理解できますが、ワンパターンかなと思ってしまいます。過ちを繰り返さない・・・分かりますけど。ただ諸外国の外交の歴史を考えると日本という国はすごく単純な国家であることは間違いないですね。本当に戦争を起こさないで平和を維持するためには「神の国」でなく「泥臭い、奥の深い、なかなか底が読めない"人"の国」にしなければと思います。




日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票 (岩波新書)
販売元: 岩波書店

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