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和書 508066 (44)



中国の歴史散歩〈4〉 (アジア歴史散歩シリーズ)
販売元: 山川出版社

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アジア型経済システム―グローバリズムに抗して (中公新書)
販売元: 中央公論新社

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本書は、開発経済論を専門とする原洋之介教授の「アジア型経済システム」試論ともいうべき一書である。とはいえ、副題の「グローバリズムに抗して」が示しているように、経済システムを分析する認識枠組・方法論を改めて問い直す問題提起の書物であるといったほうが適切だ。グローバリズムを理論的に支えている新古典派経済学は、全世界を近代理性によって徹底的に構築し得るとみなす啓蒙思想の歴史的産物であり、市場経済という制度を補完する慣習、伝統や文化信念といった経済外的要因を「負の遺物」とみなす思考様式を流布させている。こうした新古典派的市場経済論と批判的に対峙し、新たな発展史観を多角的な視点から模索しているところに、本書の大きな特徴がある。それゆえ、「東アジア型経済システム」(第3章)の内容それ自体よりも、「グローバリズムという『時代の錯誤』」(第1章)や、「反市場原理主義の知的基盤」(第2章)といった章のほうが、著者の問題意識を明快に理解できるという意味でよりスリリングだ。農業経済学から出発し、アジアを中心とする地域経済研究を積極的に推し進めてきた著者であるだけに、グローバリズムに対する批判的認識も具体的で示唆に富んでいる。「普遍原理への固執を反省しようとしない経済学の支配的正統派に対抗するためにも、我々は地域研究を深化させ社会文脈に特殊な経済システムの進化論を具体化させる必要があるのだ」(172頁)という主張がさしあたりの結論的覚書であろう。序章でのハンチントンによる、「普遍性を放棄し多様性を受け入れ、その上で共通性を追求する」という分析視角にも大いに共感する。本書を読了し、大学院修士課程の際に輪読した『開発経済論』(岩波書店、1996年)を想起するとともに、問題意識とそれに基づく研究スタンスの方向性という点で、進化・制度主義研究者として知られるホジソンの主張との親近性を感じることが多かった。




アジア史概説 (中公文庫)
販売元: 中央公論社

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宮崎市定博士は中国学の権威であるが、アジア史のみならずヨーロッパ史にも深い知識を持っておられる。扱われる地域は中国のみならず、わが日本、インド、イスラーム圏とほぼアジア全域に渡り、古代の文明発祥から近世のヨーロッパからの影響まで筆が及んでいる。分厚い本であり、話題も多岐に渡るが、宮崎博士の文章は理路整然として読みやすい。一日本人が到達したアジア歴史研究の頂点を見極めたい方には、ぜひお勧めしたい一冊である。




アジア史論 (中公クラシックス)
販売元: 中央公論新社

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 まず何を措いても、『アジア史論』との表題から生ずるであろう誤解のなきように、注意を
促すところからはじめねばなるまい。
 中国史の泰斗にして、しかしその座に安んじることを拒む氏に言わせれば、「内とか外とか
言うのは元来比較的、相対的なもので決して絶対的な分ちかたではない」のであって、「所詮
人類は総括的に観察すれば一つの群れで」しかない。そこからして「当然あるべき歴史の姿は
世界史の外(ほか)にない」。
 恰も「地球人類の争いに全く利害関係のない火星人が、無限大の距離から眺める」が如き、
客観的な相からの世界史構築の可能性を信じてやまぬ宮崎氏のあまりに大局的なスタンスに
ヘーゲル‐マルクスの香りをほのかに嗅ぎつけるのは決して私の錯覚ではなかろう。
 東アジア、西アジア、ヨーロッパ、とひとまず世界史に三区分を設けた後に、交通と経済を
鍵概念として、その相互干渉のもとで、それぞれの地域において古代史、中世史、近世史へと
移行が果たされた、とするのが氏の見立て。それを披露するのが「世界史序説」。
 企てはそれだけに留まらない。「世界史の体系を考える場合、西洋を主とし、東洋を付属と
する従来の立場は、根本的に改められねばならない。東洋は西洋の目を通して眺めらるべき
ものではなく、西洋と対等に置いて見くらべらるべきものである」。
 こうして、世界史における「コペルニクス的転回」が宣言される。
 寡聞にして私は宮崎史観なることばの存否を知らぬが、六点の論文を収録した本書は、氏の
壮大な歴史観の入口を覗くにうってつけの一冊と呼べるのではなかろうか。

 おそらく、現代の歴史学者の目からすれば、粗が目立って仕方のない一冊には違いない。
門外漢の私ですら、これはどうか、と首をひねってしまう記述も少なくない。「西アジア史の
展望」などは60年前のテキストであることを斟酌し、専門ではないとの弁明つきであることを
差し引いても、もっと優れたアラビア史、イスラーム史の書物はいくらでもあろう、という
程度の粗末な代物と言わざるを得ない。
 とはいえ、こうした批判すらも、氏の価値をなんら毀損するものではない。氏曰く、「古典
なるものは、これを生じた当時の社会と同様、まだ未成熟であると同時に、あらゆる方向に
向って発展すべき可能性をその中に蔵している点が尊い」と。
 まさに、氏のこのテキストも「古典」たる要件を十全に満たしたものである。




飛鳥―水の王朝 (中公新書)
販売元: 中央公論新社

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 飛鳥は山間にあるはずなのに、水がどうかかわるのだろうか。そんな素朴な疑問と興味から本書をひもとくことになろう。
 もちろん、古代の飛鳥であって、日本が誕生した場所、国家と文化の原像を知ることのできる場所である。日本の原像を知るにはゆっくり歩かねばならない、と自分の足で飛鳥を歩くことを勧めている。ここには数多くの遺跡が写真・図面入りで紹介されている。
 キトラ古墳壁画、高松塚古墳副葬されていた海獣葡萄鏡、字書木簡、豊浦宮推定地、伝飛鳥板蓋宮跡遺跡など、行って見たくなるものが次々出てくる。宮滝遺跡の近くを流れる吉野川、飛鳥河辺行宮の登場あたりから、本書の中心テーマになる水につながる記載が多くなる。
 飛鳥の土地が謎めいて語られるのは、あちこちに見慣れない形をした石造物(猿石・亀石・鬼の俎など)があるからである。
 更に、飛鳥で掘られた運河の跡が、飛鳥池遺跡の東側で見つかっている。また、斉明天皇ら古代の王族は、人口の川や池を使った庭園を好んだ。天智天皇は、飛鳥に巨大な水時計を造った。それにちなむ水落の地名が今も伝えられている。
 舒明天皇に始まる「水の王朝」、それは皇極女帝が再度皇位につき斉明朝となって、さまざまな水に関わる演出の仕掛けを作ることによって、飛鳥の水の風景はクライマックスに達する。その子たち天智、天武、持統までをその呼称にしたいと言っている。 八角形の墳墓の系譜として共通性があるとも言える。
 近年飛鳥のことを「石と水の都」というキャッチフレーズで呼ぶこともある。水はなくても、石に水を連想する心の豊かさ…水への祈り。水に強いアクセントをおく飛鳥の風景。本書、水の王朝論は仮説に過ぎなくとも、これを手がかりに自らの飛鳥を歩けば、その人の心に清水が流れ来るに違いない(雅)




飛鳥時代の謎―聖徳太子・天智・天武・持統の正体 (学研M文庫)
販売元: 学習研究社

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飛鳥とは何か (集英社文庫)
販売元: 集英社

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飛鳥・奈良時代は日本史の中で、一番重要な時代で、また、一番面白い時代だと思う。
この本は、飛鳥に的を絞って書かれた本である。
梅原氏は例によって、通説など関係なく、持論を展開される。
自序に書かれてあるが、この本は氏の聖徳太子についての研究の過程において書かれた論文らしい。
しかし、これ一冊でも、充分に読み応えがある。
私は京都府南部に住んでいるが、飛鳥へは一度も行ったことがない。
この本を読んで一度訪れたくなった。




飛鳥・奈良時代―日本の歴史〈2〉 (岩波ジュニア新書)
販売元: 岩波書店

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飛鳥の朝廷 学術文庫
販売元: 講談社

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1974年に小学館の通史「日本の歴史」の第3巻として出版されたものの復刊。著者は戦後の古代史研究を牽引した碩学の一人であるが、雄略朝には特別の思い入れがあったらしく、通史ものとしては珍しく雄略朝から記述を始めて、壬申の乱までの歴史を東アジアの歴史との総体の中で豊かに、そして見事に描きだしている。東アジアの中で日本の古代史を考えている貴重な書。東大の大津透氏が解説を書かれているが、極めて視野の広かった著者の研究と本書の評価、現在も有効な視点が何かがよくわかる適切な解説となっているのは有難い。なお最近の通説的な見解を手軽に知るには井上氏の薫陶も受けた吉村武彦氏の「日本社会の誕生」、同じく吉田孝氏の「飛鳥・奈良時代」(岩波ジュニア新書)などが参考になる。刊行後30年を経過しているにも関わらず、現在も色褪せない歴史叙述の巧みさに驚かされる。




飛鳥の謎 (ノン・ポシェット)
販売元: 祥伝社

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