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和書 508082 (134)



ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2
販売元: 岩波書店

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ニーチェは、人を衝き動かしてきた意志というのは、力への意志だったと説きます。 すなわち、自らを権威あるものとして、他人を屈服される力を持とうとする意志です。 この意志を元に、人々は権威を形作り、それは、善悪の基準付けを行ってきました。

しかし、この意志を持つ人間は弱い存在でした。 だから、同情、隣人愛を自らを権威あるものとするための道具としました。 その産物が国家であり、キリスト教であり、神であったとニーチェは喝破します。 このような弱い人間というのは、動物と超人の間にかけられた橋のような、過渡的な存在であり、乗り越えられないといけない存在なのであると、ニーチェは考えました。

人間がこれまでの弱い人間を乗り越えるとき、神とその愛、同情により作られていた世界観は終わりを告げます。 ニーチェはこれを、「神は死んだ」と表現します。 神の死んだ世界で生きていくのは、人間を乗り越えた超人です。 この超人は、意志、自由、創造力、孤独、自分自身への愛といった特質を備えた人間です。 同情されなくても、他人に思いやられなくても、生きていける存在。


キリスト教的な世界観をもっていた時、人々は、自らの人生の終焉を、審判の日とそれ以降の天上での生活に落ち着ける事が出来ました。 しかし、それら世界観が崩れたとき、大きな精神的危機が襲いかかってくることになります。 ニーチェは新たにとって変わられる世界観は永劫回帰とよばれるものだと考えました。 これは、生がまるで何回も同じ場面を繰り返していると考える世界観です。 

事実、この永劫回帰の世界観に陥ることは、現代における無宗教で「自分主義」の人々にとって深刻な問題なのではないかと僕は思います。 信じるものは無い、生はただ進むことのないルーティンでしかない、となれば、人生が虚無に思えてきます。 

このような、神から脱却したのちにも虚無に陥らないための方法としてニーチェが主張した事は、自らと自らの人生を愛することでした。 もし自分の生が永遠の円環の輪の中で逃れられないものなのだとしたら、その人生を受け入れるためには、この永遠の円環である人生を愛さねばなりません。 他人への愛は、その自分への愛の中にこそ存在するべきものなのだとニーチェは考えたようです。 そして、本書の中では、その自分を愛することから得られる喜びがうたわれています。


本書その他を読む限りでは、「人間は乗り越えられなければならない」というのは、ニーチェの価値判断であり、論理的な帰結ではなかったように思われます。 でも、本当に乗り越えられないといけないのでしょうか。 人間の持つ弱さを抱いて、お互い弱さを援け合いながら生きることは、それはそれで素晴らしい人生なのだと僕は思います。 (ごめんなさい、でもこれはこれで僕の価値判断です)

ニーチェが、吐き気を催すような奴隷道徳と批判しようと、人間の弱さというのはそんなに簡単に変わるものではないので、今は、自らを超克することを考えつつも、周りの人と援けあって生きていくことこそが一番なのだと思います。 もっとも、1000年後には、分かりませんが。






ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3
販売元: 岩波書店

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この訳では意思の力が誤解されるかもしれない。

そもそも本来的には意思の力とはなんだ?とニーチェに尋ねたところ、次のような答えが
返ってきた。

それは僕たちが生まれる以前、太古の昔から世界に根源的に存在し流動するエネルギーを受信しようとする意思のことである。われわれ人類はただの蓄群を超克し、ハイファイな受信機に自分を改造しなければならない。

そして我々はその根源的なエネルギーを受信しつつも、それを価値のあるものに変換していかなければならない。それは強者のニヒリズムだ。君は積極的に無意味な物、無価値なものを、ニヒリズムを、創造していかなければならない・・。そしてそれを超克していかなければならない。虚を実にするかの如く・・・・。

*この話は半分フィクションですので真に受けないでください。




道徳の系譜 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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“道徳の系譜”は“ツァラトゥストラ”と並んでニーチェの最も重要な著書ではないかと思います。 この本を読むと、ニーチェという人が何と戦っていたのかがよく分かります。 彼は恐らく、ヨーロッパ人というものが、異人種の宗教に征服されたということに我慢がならなかったのでしょう。 これは分からないことではありません。 欧米人は今でも平気でジョンとか、ポールとかいう(もともとユダヤ人の)名前を子供につけますが、例えば日本人が子供にベトナム人やタイ人の名前をつけたら我々はどう感じるでしょうか? 彼らが日本人より優れていようが劣っていようが、私たちはそれに納得できるでしょうか? それと同じことが欧米では二千年にわたって続いているわけですが、ニーチェにいわせれば、これはユダヤ人の文化・思想に、ヨーロッパ人が屈服したことのあらわれなのでしょう。 彼の(キリスト教に犯されていない)ギリシア・ローマへの偏愛はちょっと尋常ならざるものがあります。

ただ、ルサンチマンというのは決してユダヤ人の専売特許ではなく、人類普遍のものだと私自身は思っています。 キリスト教以前の時代の、強者の部類に入る人にだってあったのではないでしょうか? ニーチェの著書は日本では大変な人気ですが、二千年近くにわたって、中華文明やヨーロッパ文明やアメリカ文化といった、自分たちより圧倒的に強大な存在たちとの対峙を余儀なくされてきた我々日本人も、常にルサンチマンに飲み込まれて自分を見失う危険と隣りあわせで生きていると私は思います。 ニーチェの本はそういった状況下の我々自身の存在に喝を入れるために読まれるべきなのではないでしょうか? 彼自身はキリスト教が完全に浸透しきったヨーロッパで孤立無援の悲惨な戦いを繰り広げました。 その悲壮な覚悟は時として、私たちにはもう理解不能なほど無茶苦茶な罵詈雑言の言葉となって彼の著書に散見されますが、彼の哲学の本質は人間の弱さを逃げずに見つめ、それを克服するための道標としての教えなのではないでしょうか。




善悪の彼岸 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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もともと“ツァラトゥストラ”の解説書として書かれたというだけあって、この本は分かりやすいです。 なんといっても読むべきは第二、第三章で、ニーチェ思想の入り口として、最低限必要な事はここに書いてあると思います。 第四章では彼の残した見事なアフォリズムを楽しめます。 有名な“怪物と闘う者は、そのため己自身も怪物にならぬよう気をつけるがよい”もここにあります。 

しかしながら第五章以降は、果たして読む必要があるのかどうか私にはなんとも言えません。 ニーチェという人はとにかく戦闘的な人で、戦う相手がキリスト教だとかそれに付随する道徳だとかという、強大かつ明確なものである場合、彼の論旨は冴えに冴え、まさに尋常ならざる論理の一斉射撃が発動しますが、“ドイツ人というものは”“イギリス人というものは”“学者というものは”はたまた“女というものは”と、不特定多数を十把一からげにして罵詈雑言を浴びせるとき、読んでいる方としてはなんともやりきれない反発心が胸にわいてくるのを抑えることが出来ません。 一言で言えば“天上天下唯我独尊さん、じゃあ、あんた自分はどうなんだよ!”ということです。 この本の第五章以降はまさにそのような文章が多いのです。 ある意味、こういう文章によって誤解され、彼の本質を理解しない勘違い野郎たち(ナチスとか)に利用される宿命を負ってしまったのではないでしょうか。




プラグマティズム (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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私は、本書を読むまでは「プラグマティズム」という言葉に否定的なイメージを抱いていた。何か、軽佻浮薄な考え方のように感じていたのだ。しかし、本書を読んですぐにこの誤解は解けた。プラグマティズムとは、真摯な哲学的問いの末に生まれた方法論なのだ。

ジェイムズの基礎たる主張は次のようなものである。
世界は一であるか多であるか、宿命的なものであるか自由なものであるか、これらはどちらも世界に当て嵌まるかもしれないしまた当て嵌まらないかもしれない観念であって、この論争は果てることがない。しかし、今もし一つの観念が他の観念よりも真であるとしたならば、実際上われわれにとってどれだけの違いが起きるであろうか。もしなんら実際上の違いが辿られえないとするならば、その時には二者どちらを採っても実際的には同一であることになって、全ての論争は徒労に終わるのではないか。

ジェームズは真理というものを相対化して、真理とは実生活において有用であるかどうかである、と言う。その人がその観念を真理だと思えるかどうかが大切なのだということである。ジェームズにとって哲学とは「傍観者的なひややかな真理の探究ではなく、生活の基底そのもの」であり、「彼が生きていくための信仰ないし信念」であった(本書訳者解説より)。彼にとって哲学は、彼を救うものであったのだ。そして、プラグマティズムとはそのための方法論だったのだ。私はこのジェームズの哲学に対する態度に敬服せずにはいられない。

哲学の役割ないし目的をどのように捉えるかによって、好き嫌いは分かれるかもしれない。しかし、本書のメッセージの強烈さはまさに不朽であると言ってよいだろう。哲学をする際には必ず読むべき書物であろう。




宗教的経験の諸相 上 (1) (岩波文庫 青 640-2)
販売元: 岩波書店

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プラグマティスト、ジェイムズの講演録。
講演なのでわかりやすい。


以下概要(下巻もまとめてレビューする)

1章     宗教心の起源は重要ではない。宗教の価値は、それが与える果実によって決まる。
2章     宗教は、苦痛を幸福に変える。
3章     知覚出来ないものの現前(を準認知すること)は宗教へとつながる。人は合理的なものより不合理なものを信じやすい。
4・5章   ある種の宗教は、悪の存在を無視し、世の中の善・正しさを頭から信じることで、実際善い状態になっていく。
6・7章   別の種の宗教は、世の中の本質は悪(失敗)であると見て、そのため反省、悪からの回避、人生への絶望へと至る。
8章     人格統合には、急進的変化と漸進的変化がある。
9章     回心とは心の関心・焦点の変化である。回心には、意識的なものと無意識的(自己放棄的)なものとがある。
10章    急激に起こった回心は、その人にとって決定的で忘れがたいものになる。
11〜13章 宗教は、人を愛・禁欲(自己犠牲)・純潔へと至らしめる。
14・15章 宗教は、知性を持ち合わせていないとアンバランスで偏狭な状況へと人を追いやるが、知性があるならば社会的にきわめて有用である。
16・17章 神秘主義とは、自己と世界・宇宙の同一化の経験である。
18章    宗教は個人的なものであるゆえ論証不可能なものであり、したがって哲学はこれを取り扱えない。
19章    宗教において、祈りは成就の感覚を獲得する役目を果たす。
20章    宗教は、個人の内から起こる感情の知覚によるものであるため、自己中心的である(もっとも、実在はすべて自己中心的なものだが)。したがって、宗教は科学で乗り越えられるものではない。宗教とは、個人の潜在意識から起こるものだが、それは「より高いもの」によって起こされた、つまり外から起こされた、と感じられるものである。



宗教に関する刺激的な叙述が多い。
具体例が多いため、いささか冗長だが、良書である。




宗教的経験の諸相 下  岩波文庫 青 640-3
販売元: 岩波書店

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 プラグマティズムの代表格ジェイムズの主著。
 心理学者であり神学者の家庭で育ったジェイムズは宗教感情を生き生きと描いている。
 上巻で回心までの過程をあつかったジェイムズは下巻で宗教者が外に向かってどのような態度をとるのか。そして大衆がどのように「宗教」を受け取るのか見事に論じている。
 なお本作はシュライエルマッハーの『宗教論』とともにルドルフ・オットーの『聖なるもの』で度々引用されている。『聖なるもの』に入る前に読んでおくといいだろう。




哲学の改造 (岩波文庫 青 652-1)
販売元: 岩波書店

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ジョン・デューイが1911年に東大で講義した哲学概論をまとめた1冊。標題がが改造となっているが、原題に配慮すれば再構築とでも訳すのが無難だが、思想史的な内容に配慮すれば改造でも宜しいかろう。なにせ、19世紀以前の哲学的使命から20世紀から今世紀への哲学を架橋している。日常生活と哲学的思惟との関係性を、諸学との連関で具象的に語り、哲学の使命を明確に位置づけている。そのスタンスは昨年6月に逝去したリチャード・ローティですら、本書を絶えず念頭においていたと言われるほど、精確な認識に基づいている。
画餅のように意味のない認識論構築に勤しんだ19-20世紀の職業的哲学者の限界を、見抜いた哲学入門書で、哲学=精確な知識論(認識論)と社会との関係性を平明にかつ具象的に語ってあますところがない。名著と言われる所以である。訳者も戦後の一時期を風靡した清水幾太郎夫妻で、読みやすい。20世紀初頭にこれだけ教養という幻想に足をとられずに叙述した哲学書は、著者の学的精緻さを証明している。一読の価値あり。




民主主義と教育〈上〉 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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 デューイはヘーゲル哲学に影響をうけたプラグマティストである。
 だが、冒頭から読むと「生活」や「生命」という言葉から出発しているところからすれば、この本はプラグマティストの本というよりも、レーベン(生)の哲学に組している。
 レーベンの哲学といえば、新カント派や、ベルグソンとか、ニーチェやハイデッカーとか、ディルタイ、ボルノウあたりを連想するが、「ディルタイの精神科学」とか、「ハイデッカーの現存在や実存」とかのような内面の方向性を深化して研究するというのではなく、社会や歴史という「精神の外側」の「影響を与えるもの」、つまりは客体としての制度的な「外面」を重視するレーベンの哲学となっているように思える。
 それもヘーゲルの影響を受けているものだから、「人文系対自然科学系」のような対立する二元論のアウフヘーベンという構成でどこもかしこも本書は進んでゆく。
 このあたりはおそらくヘーゲルを余程読みこしたということだろう。デューイはヘーゲルを重視している。ヘ−ゲルが凄いのはあの時代に既に「今を生きるのか」、「明日のために生きるのか」を欲望という概念を模索して進めている点にある。
 ひるがえって、教育制度などというものは「明日を生きるために今日は苦行する典型」のようなもので、何のために勉強をするかわからない生徒を前にして四苦八苦する教師が想像できそうなものである。
 だから、デューイはこの典型的な「明日への欲」と「今日の苦」が対立しかねない「教育」という制度で発生する論点を通して、矛盾を解決しようと説明している。これはヘーゲルのプラグマティズム的解釈版といえるかもしれない。
 ともかく、アメリカ人全般に言えることだが「外向的気質」それが生み出したプラグマティズムによって、ヘーゲル哲学もドイツ哲学のような「内面探求」や「精神医療」といった価値観に流れなかった。
 デューイは生命に付帯する欲望の葛藤を捉え、人間それ自体が生命と連続していることを見越して、 人間にとって、そうした「生命」と「社会」を繋ぐものが教育であると見ている。
 本書はさまざまな関係の中で有機的に連続している世界観をもち、対立する二元論の克服をモチーフに、社会と人間の進化論を統一的に見据えた教育論の大著である。




民主主義と教育〈下〉 (岩波文庫)
販売元: 岩波書店

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