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和書 554120 (255)



反哲学史 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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「形而上学的原理とは・・・人間の願望の外に投射されたものでしかなく、本当に存在するわけのものではありません」
「真実らしいこと以上の真理はありえないわけであり、その真実らしさは実際的有効性によって決せられる」
「万事を無原則に成りゆきにまかせる自然的存在論」に立脚していたソフィストの言い分・・・誠にご尤も。

「頽廃期に入り、国内的には民主政治が極度に堕落した衆愚政治」と化していたギリシアにおいて、
「ソクラテスやプラトンが戦おうとしたのは・・・堕落」
「ポリス(都市国家)の市民が・・・詭弁を弄してまで自己の個人的権利を主張し、
 民主政治が過度に発達して衆愚政治と化すことによって、ポリスは精神的共同体としての統一性を失うと考えた」故である。

「おのれ自身いかなる立場」にも立たず、
「既成の知識や実在を否定して、それに代わる何か他の知識や実在をもち出そう」としなかったソクラテスの目的は、
「新らしいものの登場してくる舞台をまず掃き清める」ことにあった。

「国家というものは正義の理念を目指して形成され作られるべきものだという
 政治哲学を提唱(『わたしの哲学入門』)」したプラトンの特異な存在論・・・イデア。
「すべてが作られたもの、作られるものであるからこそ、
 国家も成りゆきにまかせるのではなく作られなくてはならないのだ(『わたしの哲学入門』)」

成りゆきまかせの堕落を憂いたが故の "あえてのイデア論" が、存在論そのものを転倒(おのずから生成→つくられてある)させ、
イデアに振り回された「ヨーロッパ文化は実は無に向かって形成されてきた」というニーチェの指摘・・・ニヒリズム。

おのずから生成、転じて、万事無原則の成りゆきまかせ。
作られなくてはならないのだ、転じて、ニヒリズム。
全存在者が往き場なく生成を繰り返す世界・・・「永劫回帰」こそが、端的な事実。




ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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ヒューモアとしてではない唯物論というのは結局虚無的なものでしかないと思う。ヒューモアとしての唯物論というのは要するに括弧で括る行為であり、あまりにも人間的な姿勢でもあって、現実にそれを超越する試みではない。それをスピノザにとっての「認識」と言い換えても差し支えはないと思う。柄谷自身もまた共同体の内部にいる。それは単なる事実であって、それ以上のものではない。問題なのはそれをどう捉えるかの方であり、そこにヒューモアが生まれる。僕がこの本を読んで思い浮かんだのは「私は一人の他者である」というランボオの言葉だった。元気の出る本だと思う。




平和の海と戦いの海―2.26事件から「人間宣言」まで (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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保田与重郎 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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リヴァイアサン―近代国家の思想と歴史 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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本書は三つの部分から成る。国家概念の変遷を綴った第1部、ホッブズ、ケルゼン、シュミットという三人の思想家の国家論を比較・分析した第2部、そして超全体主義の可能性をSF的に考察した「付 国家の未来」である。各部はゆるやかに関連しており、本書に通底する著者の問題意識は「はじめに」と「あとがき」において語られる。

本書第2部での三人の思想家の比較・分析は、まさに専門の研究者ならではのもので、そのレベルの高さは評者のような門外漢にも伺い知れる。他方、本書第1部や付章、それに「はじめに」と「あとがき」での著者の国際政治への洞察は、戸惑うほどに素人的で、ナイーブとの印象を否めない。本来、前者の分析が後者の主張に説得力を付与するはずなのだが、どうしてもそうなっているようには思えない。

実は、こうした読後感は本書に限ったものではない。学者が国際政治について行う言説全般に共通するものである。

おそらく、現在進行形の国際政治というのは、学問的に語り得る領域ではないのだろう。学者がどれだけ優れた理論を構想したとしても、それを現実の問題に適用して提言を導くためには、三段論法における小前提としての諸事実が必要である。しかし、国際政治が為政者間のゲームとしての側面を有する以上、国際政治における諸事実は決して十分には公開されない。相手に手の内を明かししてしまってはゲームにならないからである。公開されるのは、相手の行動に影響を与えない重要でない事実(遠い過去の事実を含む)か、あるいは相手の行動への影響を期待した操作された事実のみである。結果、国際政治についての学者の言説は、必然的に机上の空論となる。

結局のところ、国際政治について学者が行い得るのは、既に公開された過去の諸事実について史的分析を行うことか、あるいは抽象的な理論を抽象的なまま為政者に「献上」することだけである。これらを踏み越えて現実の国際政治について論じようとするのは、学者には過ぎた振舞いなのだ。




論理分析哲学 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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 哲学はドイツで発展していたったが、どうもドイツの哲学は非常に内向的だったと思う。
 ドイツの哲学に親しみはじめると、その後の視点はある程度は東洋に向くようになってしまう。
 しかし、ドイツよりさらに西へ進むと、もはや東洋は切り捨ててしまうのではないかと思う。ヴィトゲンシュタインは「語りえないものについては、沈黙しなければならない。」とまで言い切った。
 哲学への視線は、ある時期から西の知的哲学的世界で、内向性のものから客観的な見方、論理や言語などの分析といったものに話題がうつり始めたようだ。
 そうした西の世界で盛んになった分析哲学というのは何か。
 本書は非常に客観的かつ数学的に、矛盾が出ないように各思想や物事を見る見方を提示するために学者が思考を詰み重ねた末に磨き上げられた「分析哲学の歴史」を、垣間見るような内容である。また、分析哲学の核心に触れる中級レベルの入門書である。
 本書を読めばわかるが、「矛盾が出ないように一対一的に厳密に考える数学」が、「数学」そのものを疑いはじめ、「自家撞着」に陥ったり、論理学はわれわれに「公理的思考の規則」を与える「メタ学問」であったが、論理学をさらに公理化しようと「メタメタ学問化」していく所など非常に悪戦苦闘する世界でもあることがわかる。
 しかし、そんな悪戦苦闘でも、登場する人物、アリストテレス、ヴィトゲンシュタイン、カルナップ、フレーゲ、ムーア、ライプニッツ、ラッセル、ここに登場する知の巨人の問題意識の深さと、超越した感のある分析の鋭さに舌を巻く。
 そして、本書でそれが理解できたときの感動もすばらしい。

 著者のなせる技か、非常に歯切れよく、明解な文章に驚きを隠せなかった。
  




私の見た東京裁判〈上〉 (講談社学術文庫)
販売元: 講談社

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難しいとおもって覚悟して買ってみたけれど凄くよみやすかったですね。現場を見た人ならではの臨場感もあるしすこし高い値段たが東京裁判に興味がある人ならぜひ読むべきである。著者は感情を抑えようと努力はしているが、ところどころに著者の想いが目につく、しかしそれは著者が誠実な日本国民である証拠であろう、著者を右翼扱いする声もあるが、間違いなく読解力の欠如であろう。





時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか (講談社現代新書)
販売元: 講談社

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野矢茂樹氏の『無限論の教室』を読み、時間についての哲学にはまってしまいました。
その次に読んだのがこの本でしたが、読む前にタイトルから想像していたのに比べ、正直期待はずれでした。

また、ときに彼の主張している内容が間違っているのではないかとさえ感じられました。
例えば第3章で提唱されている「印象時間」の概念についてですが、1時間に感じられた30分と1時間に感じられた2時間では、「客観的時間」こそ違えど「印象時間」では同じ「1時間」であると彼は主張します。そしてこの2つの時間の感じ方は長さとしては同じだとして平面グラフ上の同一軸に描くことができるとしています。しかし本当にそうなのでしょうか。前者(30分)と後者(2時間)は、どちらも同じく「1時間」であるように感じられたとしても、その2つの感じ方まで同じなのでしょうか。「これが1時間だ」と思う感覚それ自体もときに変化しうるもので、同じ「印象時間1時間」でもその感覚までも同じであるとは言えないのではないのでしょうか。感覚にはものさし(単位)がないのでそれを比較することは不可能なのではないかと思いました。仮にその感覚を「印象時間」の単位に置き換えたとしても、その置き換え方が違えば複数の感覚を比較することはできないと私は思います。

他にもいろいろ述べられており、私個人としては彼の主張に対しときに賛成、ときに反対できるといった感じでした。
彼の考えを学ぶ、というよりは彼の考えから学べた、という意味で読んだ価値はあったかもしれません。




自我の哲学史 (講談社現代新書)
販売元: 講談社

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 〈私〉というのは、一貫して「連続的」「同一的」であり、また、「主体的」に決断したり行動したりするものとして、義務や責任をおわなければならない。
 ――こんな「われわれが今日自明としているような『自我』概念は、西洋近世の哲学において形成されてきた」「歴史的概念」(本書より)にすぎないのである。
 本書第一部は、その考察に当てられる。
 そこでは、デカルト、ライプニッツ、カント、フィヒテ、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ハイデッガーといった、西洋近現代の哲学者たちの「自我」「自己」をめぐる考察が、的確に整理されている。とはいえたいへん読み応えがあり、西洋近現代哲学史の概説といっても充分な内容だと思う。(ただ僕的には、ウィトゲンシュタインについての考察が、核心に触れながらも数行だけというのは残念)
 第二部では、そんな西洋近現代思想と対峙した20世紀初頭の日本人、宮沢賢治、西田幾多郎、夏目漱石を取り上げ、『西洋的自我』の概念がはたして日本人に馴染むのかを検討。そこに齟齬を見出すのである。
 もちろん著者は、「伝統回帰」や、あるいは逆に「一層の西洋化、グローバル化」を叫ぶのではない。そんな簡単な話ではない。
 しかし、一方でリバタリアニズム(市場経済における徹底した個人主義、競争主義。いわゆる『マネーの論理』)の台頭と、もう一方で「自分探し」や「癒し」ブームなどに象徴される「今の自分は本当の自分じゃない」的ムードが広がる21世紀のニッポン。この妙なちぐはぐ感、疎外感の源泉を、西洋的自我概念と日本人の齟齬に求めることもできるのではないか。
 だからこそ今、本書の提起する問題はとても切実で、とても深い。
(難を言わしていただくと、このくらいの本になると新書とはいえ人名事項索引が不可欠である。版元には是非検討してほしい)




スピノザの世界―神あるいは自然
販売元: 講談社

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昔スピノザの“エチカ”を読んだとき、なんだか数学の定理みたいな文章の羅列に恐れをなしてすぐに投げ出したことがありました。 10年前にこの上野氏の解説書があったらどんなに良かったか。

第四章は難しかったけど、何度か読むと理解できました。 第五章は痛快なことが書いてありますねえ。上野氏のスピノザ解釈が正しいとするなら(なんかスピノザみたいな言い方)、彼の哲学はわれわれアジア人にとっては完全−とは言えなくともほとんど違和感なく受け入れられるものでしょう。 逆に人格神を奉じる人から見ればまさに邪教。 それにしても一神教の世界に生まれたスピノザは、一体どこからこのような世界の見方を得たのでしょう。 まったくの独創なのでしょうか? すべてが整然と定理化されていて、あまりに明快すぎて(究極の演繹法ですね)、迷える凡人たる私には“え? それでホントにいいわけ?”と突っ込みをいれたくなる気がなきにしもあらず。 むしろ世界の人々がこんなに明快なスピノザ哲学を受け入れないのはそれが正しくないからというよりは、みんな私のように疑りぶかいだけだからだったりして。




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